第14話

 凛夏さんとの甘美なデートをした日からしばらくの間、ずっと夢の中にいるようだった。


 とにかく、何をしていても楽しい。

 大学へ行くための朝の満員電車も、死ぬほどつまらない法律の授業も、帰宅後に親と過ごす不愉快な時間すらも、妙に楽しいものに思えた。


 まるで脳の中に幸福感発生装置なるものが据え付けられたかのよう。


 常に幸福物質が分泌され続けているような感覚で、多少不快なことがあろうともすぐさま退治され、ほわっとした満ち足りた気持ちにさせてくれるのだ。

 これは、生まれて初めて味わう感覚だった。


 以前ネットで見たのだが、人間の脳内には、心や体を正常に保つための脳内ホルモンが百以上あるらしい。


 その中でも特に重要なのが、幸福を感じさせてくれる脳内ホルモンである『セロトニン』・『オキシトシン』・『ドーパミン』の三つ。


 ストレスを潰してやる気を引き出してくれるセロトニン、人やペットとの触れ合いで安息を与えてくれるオキシトシン、物事が上手く進んでいる時に出やすい快感物質ドーパミン。


 今の僕の脳内には、これらがバランスよく出てくれているのだと思う。




 そんな夢のような日々を送るきっかけとなった凛夏さんとのデートから、ちょうど一週間が経ったある日のことだった。


 授業終わりの僕を教室の前で待っていた、ある一人の女子から声を掛けられた。


「春夏冬君、この前はノート貸してくれてありがとうね。お礼にご馳走したいから、今日の大学終わりで晩御飯に行けないかな」


 藤島優香ふじしまゆうか。同じサークルの一年生女子で、僕とは学部も同じ。


 そう言えばこの前、ノート貸したっけ。どうしてもはずせない用事で授業に出られなかったから、って。


 でも、授業一回分のノートを貸したくらいで、晩御飯をオゴる? やや理解に苦しむ。


「あ……いきなりごめんね。何か用事があったり、気分が乗らなかったりしたら全然いいから」


 これはまずい。

 誘われた理由がいまいちわからず怪訝そうな顔をしていたら、謝られてしまった。


「そ、そんなことないって! 暇! 暇! 行くよ!」


「ホント? 良かった~」


 行くに決まってる。

 だってこの子は、あの藤島優香なのだから。


 テニスサークル『レインボー』の一年生女子の中で一番人気。

 この半年間で、既に先輩三人、同学年一人が玉砕したという話を聞いた。


 確かにこの子は可愛い。

 美を追求するのならこういう形しかありえない、といわんばかりに整っている目と鼻と口が、顔の中で絶妙に配置されている。


 茶色がかったサラサラのショートボブも、可愛さをより一層引き立てている。


 凛夏さんを知らない状態で出会ってしまったら、おそらく僕なんかイチコロだっただろう。


 そうだ、それで思い出した。

 僕には凛夏さんという大事な人が……。


 でも、こればかりは仕方がない。

 あの優香ちゃんからの誘いを断っただなんて知れ渡ったら、サークル中で、


「あいつ、女に興味ないんじゃ……?」


 なんて噂されてしまうかもしれない。


「そういえば、うなぎみたいにクネクネした動きをしてるのを見たことあるぞ」


 なんていう、まさかの急展開までありえる。

 それだけは避けなければいけないから、嫌だろうと行かなければならないのだ。


 いや、素直に認めよう。

 そんな理由じゃない。


 優香ちゃんのお誘いを断らなかったのは、ただの男の性だ。


 こんな可愛い子からのお誘いを断る彼女いない歴十八年の男なんてどこにいるだろうか。

 僕は悪くない。悪くないはずだ。


 それにしても、これが噂に聞く『モテ期』というやつか。

 小学校時代から怒涛の連敗を重ねてきた僕にも、まさかそんなものが訪れてくれようとは。


 たかがノートを貸したくらいででご飯に誘うだなんて、好意を持ってくれているに決まっている。


 しかも、こんな可愛い子が……。

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