第9話

 四月の第三土曜日。言わずもがな、待ちに待った『アルファ』との初の合同練習の日だ。


 詐欺的行為により、『レインボー』などというよくわからないテニスサークルに入ってしまったおかげで、麗しの凛夏さんとは今日まで一切会えていない。


 ただ無為に授業に出続け、レインボーの人たちとも頑張って打ち解けつつ、ひたすらこの日を待った。

 そしてついに、今日会えるのだ。あの、美しさの象徴であるかのような秋山凛夏さんと。


 朝起きた時からとにかく気分が良い。

 午前九時に家を出れば合同練習に間に合うところ、六時半に目が覚めてしまった。


 ベッドから起き上がり、部屋から出て階段を降り、ダイニングへ行き、まずは朝食。


 無造作にテーブルの上に置かれていた六枚切りの食パンの袋の封を開け、一枚取り出してそのまま口の中に詰め込んだ。今は、味などどうでもいい。とりあえず腹が膨れれば無問題。


 土曜日ということで、両親はまだグッスリだ。休みの日の早起きはこれだから嬉しい。両親と顔を合わせなくて済むのだから。あんな親たちとなんて、少しでもいいから接する機会を減らしたい。


 ならばいっそ一人暮らしでもするべきかと、大学入学前にそんなことを考えたけれど、それは現実的に難しい。


 駒川大学は、東京都世田谷区にある。

 練馬区に住んでいる僕が、隣りの隣りにある世田谷区の大学へ通うために一人暮らしをするとなると、親からの仕送りは見込めない。一人暮らしをするための必然性がどこにもないのだから。


 我が家の経済ランクは、贔屓目ひいきめに見ても『じょう』といったところ。

 今住んでいる家も、最寄り駅から徒歩二十五分という、ギリギリで練馬区だと言い張れる場所に建っている古い一軒家だ。


 そんなお寒い我が家の懐具合だが、僕への負い目からか、なんとか学費までは出してくれた。とはいえ、さすがに仕送りまでは了承しないだろう。


 となると、一人暮らしをするならばすべてを自分で賄うしかない。家賃も生活費も遊興費も、自力でバイトをして稼ぐしかない。


 しかし駒川大学付近は概ね家賃が高い。風呂なしで共同トイレの激安アパートならば大幅にランニングコストを下げられるけれど、さすがにそれは勘弁。


 風呂・トイレ別とまでは言わないものの、せめてユニットバスくらいは欲しい。

 築年数も二十年未満が最低条件だ。それ以上になると水回りが心配になる。


 そうなってくると、最低でも六万円か七万円くらいの家賃は必要になってくるだろう。


 その他、食費だ光熱費だなんだとなると、どう安く見積もっても月に十五万円は稼がないといけない。大学に通いながらこの金額を稼ぐのは厳しい。


 よって、今の状況を甘んじて受け入れている。

 どんなに不愉快であろうと、この家に居れば食住には事欠かない。




 忙しない朝食を終え、さっとシャワーを浴び終わってから時計を見ると、まだ午前七時過ぎ。いくら何でもまだ早すぎる。


 仕方なく、もう何度も読んだ恋愛マンガで時間を潰すことにした。


 僕は、マンガは恋愛物しか読まない。本ならば歴史物、マンガならば恋愛物。小学校高学年くらいの頃からそう決まっている。

 意識的に決めたわけではないけれど、いつの間にかそう固定されていた。




 喫茶店でケーキを食べていた主人公の女の子が、一緒にいた意中の男の子へ告白するためにケーキを食べる手を止めて遠くを見つめ出したところで、ふと時計を見ると、午前八時四十分だった。


 ちょっと早いけどもう待ちきれない。

 読んでいたマンガをベッドの上に放り投げ、テニス用具一式が詰まったリュックを手にして玄関へ向かった。


 外へ出ると、半年ほど前から高確率でお見舞いされるようになった、大型犬のものと思われるフンと遭遇。毎回ご丁寧に、我が家の門扉の左側にドスンとかまされている。


 普段ならば、汚物を見てしまった不快感や、無責任な飼い主の精神性に対しての怒りで陰鬱な気分にさせられるのだけれど、今日ばかりは大目に見てやれる。

 フンに軽く目をやり、「自然に還りな」なんてことを心の中で呟いてやるくらいの余裕すらある。


 こうして僕は、駅に向かって歩き出した。男らしく、がに股でのっしのっしと。

 大学入学前に立てた誓い通り、クネクネしたり内股になったりしないように必死で矯正していた。




 午前九時五十分、世田谷区にあるアルファとの合同練習場に到着した。

 午前十時三十分集合予定だったので、まだ誰もいない。四十分前集合は張り切りすぎただろうか。


 それから二十分ほど経ってから、ぽつぽつと人が集まり始めた。


 必死で凛夏さんの姿を探すも、なかなか見つからない。

 急激に不安になってきた。新歓コンパの時も会えなかったし、待ち遠しくて仕方がなかったこの合同練習でも会えないなんてことになったら……。


 そんな不安がどんどん増幅し、そろそろ限界を迎えそうだった午前十時二十六分、友達と一緒に二人で練習場の方に歩いてくる凛夏さんの姿を視認できた。

 そうこなくっちゃ。僕は、まるで大仕事を終えたかのごとく、大きく息を吐いた。


 今日の練習への参加人数は、僕が所属するレインボーからは十一名、凛夏さん擁するアルファからは十八名だった。

 所属人数からするとかなり少ない出席率だ。レインボーだけで五十人以上いるはずなのに。


 新歓コンパの時の名も知らぬ二年生こと、弘樹ひろき先輩にそのあたりの疑問をぶつけてみたところ、


「大体こんなもんだよ~。うちもアルファもお遊び的なテニスサークルだしさ~。練習には来ないけど、練習後の飲み会には来るっていう人の方が多いしね~」


 ……とのことだった。


 そういうものなのか。大学のテニスサークル、まだまだ謎が多い。

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