第12話 シブースト
説明しながらだったのでいつもより時間がかかってしまったが、今日の泉質管理は終了した。
泉質管理棟を出て鍵を掛け、スミュールが温度差で体が冷えないように渡り廊下を足早に進むと、甘い香りが漂ってきた。
事務所に入り台所に行くと、マルセルがかまどに鉄の棒を突っ込んでいた。
「今日は何を作っているんですか、マルセルさん」
「シブーストだ」
鉄の棒を引き出すと先が平たくなっている。熱した平たい部分をタルトリングの縁ぎりぎりにのっているグラニュー糖に当てると、砂糖の焦げる甘い香りの煙が立ち上る。
「手洗ってこい」
すぐに用意できるからというので、スミュールと共に洗面所に向かった。
ダイニングに行くと切り分けられたシブーストと、スミュールには薬草茶、レネには紅茶がすぐに運ばれていた。
「では、いただきます」
ぱりっと表面を割ると、フォークはタルト生地まですっと入る。
一口頬張るとグラニュー糖のキャラメリゼ、シブーストムースの柔らかさからソテーしたりんご、タルト生地まで食感の違いを楽しめる。
「美味しいです、マルセルさん」
甘ったるいかと思ったが、りんごの酸味もありムースのまろやかさもあるので程良い甘さになっている。
「うん。美味い」
スミュールも口を大きく開けてぱくつく。
「そうか。よかったよ」
満更でもないのを隠そうとしても滲み出るマルセルを見ていると、何だか可愛いと思えてしまう。
「持って帰って夕飯の後にもいただきたいけど、ちょっと大変そうですよね」
ムース地が柔らかいので帰ったら崩れていそうだ。
「まだいっぱいあるから、氷冷庫に入れておく。明日の朝くらいまでなら持つだろう」
明日は朝からスイーツなんて、何て贅沢だ。
レネはにやけが止まらない顔のまま、マルセルにお礼を言った。
「なので、スミュール殿も遠慮なくおかわりしてください」
空になった皿を見て、マルセルが勧める。
思わず二度見した。レネはまだ二口目なのに、スミュールはもう食べ終わっている。
だが、彼はフォークを置いた。
「……スミュール殿はやめてほしい。『リュシアン』と呼んでくれないか?」
レネとマルセルに要望する。
「え、でも……」
彼は貴族だし、マルセルからしたら階級も違うので、敬称なしで気軽に呼んでもいいのだろうか。レネはマルセルを仰ぎ見た。
「わかりました。但し、この三人の時だけですよ。クラネさんがいる時にそんな風にしてたら、俺もこいつも小言をくらいますからね」
リュシアンも緊張していたのだろうか、それを聞いた途端にふっと顔が緩んだ。
「俺のことは『マルセル』で」
「わ、私も『レネ』と呼んでください」
緩んだ顔から花が咲くようにふんわりと微笑むリュシアンは、性別問わず見惚れるくらい綺麗だった。
「じゃあ、もう一切れ、おかわり」
こんなに美人なのに大食漢なのが、未だに結びつかなくていちいち驚いてしまう。
皿を受け取ったマルセルが席を立った時だった。
「レネ、何か光ってるぞ」
脱いで椅子の背もたれに掛けていたローブのポケットが点滅している。
引継ぎ箱の中に入っていた手鏡だ。
ここ数日はリュシアンに何かあったらすぐに連絡できるように持ち歩いていたのだ。
丸い鏡は表面が白く濁っていたので、人差し指で数回叩く。
濁りがなくなって現れたのはクラネだった。
「こんにちは、クラネさん」
「やあ、セロー。すまん、取り急ぎなんだ。スミュール様はいるか?」
リュシアンは面白そうに鏡通信を見ていたので、そのまま手渡した。
「スミュール様、今スパにルメール様が来ております。スミュール様に面会を求めていますが、いかが致しましょうか」
今はオージェ侯爵夫人とご令嬢に見つからないように総支配人室で談話中とのことで、リュシアンの許可があるなら事務所に案内するという。
リュシアンはレネとマルセルにここへ来てもらってもいいか尋ねた。
是非もないので、二人同時に頷いた。
午後から雲が多くなったのを感じていたが、レネが帰り支度を始めた頃から細かい雨が降り出した。
「何なら今日も泊まっていけ」
来客の準備を終えたマルセルが事務所にいるレネに声を掛けた。
雨や雪が降って泊まったことはこれまでも何度もあり、今回はリュシアンの看護が長引くと思っていたので、着替えもまだ余裕がある。
リュシアンのお客様が馬車で来るなら、帰りに便乗させてもらおうかとも考えた。
だが、馬車ならとっくに着いていてもいい。
「一本道だから迷うことはないと思うけど、またお着きにならないのは心配です。帰りがてら様子を見てきます」
「俺も行こう」
「事務所が無人になりますよ。何かあったら大変ですので」
「だがなあ……」
マルセルが言い募ろうとした時、ノックが聞こえてきた。
レネも共に玄関は向かうと、来訪したのはつばの広い帽子とマントを濡らした中年の男性と、まだ十代半ばくらいの少年だった。
奥からも寝着から着替えたリュシアンが出てきて、来訪者の確認をする。
リュシアンは踵を揃え、拳にした右手を左胸につけて背筋を伸ばす。
「足元の悪い中、お越しいただき恐れ入ります、ルメール隊長」
マルセルもそれに倣い、レネは魔術師の礼をする。
隊長と呼ばれた男性も少年も騎士の礼を返す。
「連絡もせずに突然来てすまんな。馬車は目立つので歩きで来たのだが、途中で雨に降られて参ったよ」
第一騎士団隊長のルメールは帽子を取り、マントの水滴を払う。
髭やこめかみに白いものが混じる四十代半ばの隊長は、微笑むと目尻に皺が寄り、峻厳な印象が少しだけ和らぐ。
雨で体も冷えているだろうからと、まずは足湯を勧めた。
隊長と従者の少年は一瞬、面倒くさそうな顔をしてマルセルの誘導に従って足湯場に入った。
だが十数分後、足湯から上がり応接室に入ってきた二人の顔は上気して気分が良さそうだった。
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