第9話 買い出し
午前中に医師とクラネが来て、スミュールの診察をした。
意識が戻り、食欲も出てきたということで一応峠を越したようだが、まだ切開した所が塞がっていない上に熱もあるので、あと数日は絶対安静にしているようにとのことだった。
診察を終えてスパへ帰る馬車にレネも同乗させてもらって、ルヴロワの町へ行った。
スミュールの熱が下がるまでレネも事務所に詰めることになり、着替えの用意やアパートの大家さんに留守にする旨を説明するためだった。
アパートは結界壁の近くにあるがその前を通り過ぎて、町の中心にあるサン・ピエール教会の前で降ろしてもらった。
「乗せていただいてありがとうございました、クラネさん」
「とんでもない。じゃあ、くれぐれもよろしくな」
扉が閉まり馬車が走り出してから、教会前の広場を横切って大通りから一本裏道に入る。
町へ行くついでに買い物を頼まれたのだ。コートのポケットからマルセルが書いて寄越した紙がある。
食料品は最後に買うとして、レネはまず衣料品店へ足を進めた。
スミュールは大きな鞄に遠征でもできるくらいの着替えがあったが、汗をかくようになったので頻繁に取り替えなくてはならない。洗濯して使い回すようにはするが、もし追いつかなくなってしまった時の予備のために数枚買っておこうとマルセルと話し合っていたのだ。
もし使わなかったら、マルセルの替えにすればいいということで。
店のドアを開けると、ドアベルがちりりんと鳴った。
いらっしゃいませ、と入った途端に声を掛けられた。大きなテーブルの上の布に型紙を広げて印をつけている三十代前半の男性は、入ってきたレネを見て意外だったのか眉を少し上げた。
この店は紳士衣料品店だ。
スパや湯治療養所の利用者のために
マルセルのメモにあったから訪ねたのだが、レネのような若い女性が来る店ではない雰囲気だった。
「あの、これ、お願いします」
メモをそのまま渡し、店員が品物を持って戻ってくるまで居心地悪い思いで待っていた。
「お待たせしました」
テーブルの上を片付けて持ってきた下着類を数を合わせながら畳んで渡した。
レネも確認して受け取った。
支払いは現金で済ませて、レネはそそくさと店を出た。
若い女性が男性用下着を購入する理由は自ずと限られてくる。
いい捉え方なら、お使いで家族の下着を買い出しにきたと思われる。良くない方だと連れ込んだ恋人の着替えだと思われる。
真相を告げたいのはやまやまだが、口外できない事情があるので弁明はできない。
馬車の中でクラネから今回の事情を聞いたのだ。
上司の奥方とご令嬢や余人にも、居場所を特定されないようにと箝口令が敷かれた。
スミュールには気の毒だが、美男たるゆえの奇禍ともいえる。
二年程勤めた魔術庁は、第一騎士団と同じく王宮殿の敷地内にあったが、覚えることや研修がやたらとあった新人時代には日々の業務に忙殺されて過ぎていったので、エリート揃いの騎士団の誰某がなどと噂は耳に入ってはくるがそこまででしかなかった。
スミュール程の美貌の騎士がいたのにレネはまったく覚えていない。
魔術庁の新人魔術師はそれだけ過酷だったのだ。
レネも配属が変わり、ここに来てようやく自分のペースを見つけることができ、世間の話題に耳目を惹きつけられるようになった。
マルセルもいい同僚で料理は上手だし、ルヴロワの町は穏やかでのんびりしているし、いずれ異動はあるができることなら長く勤めていたい。
業務外とはいえ、クラネが上に報告して残業代も出るように取り計らってくれた。賃金が出るならその分の労働はしなくてはならない。
スミュールが多少動けるようになればスパへ戻る。
それまでの辛抱だ。
レネは大通りに出て食料品を取り扱う店に入る。
頼まれている品はここで全て揃ったので、後はアパートに帰って自分の着替えを取りに行く。
大家さんには、仕事の関係でレポートを作成しなければならなくなり、研究のために事務所に泊まりがけになると説明した。
「あらあ、大変ねえ。でもガランさんがいるから食事の心配だけはしなくて済みそうね」
大家の奥さんは本人は気づいていないが声が大きくよく通るので廊下中に響き渡る。
「大丈夫なの? 男の人と二人っきりになって」
「私は魔術師ですから」
護身の魔術も学校で習った。いざとなれば相手がマルセルだろうと遠慮なくかけるつもりだ。
「そうだったわねえ。でも男は狼よ。油断しちゃダメだからね」
マルセルは狼というより熊だろう、などと思っても口には出さず、奥さんとは適当に話を合わせて留守をお願いした。
荷物を詰めたリュックサックを背負い、もう一つ顔出ししておかなくてはならない所へ向かう。
アパートから少し離れた所にある小間物を扱う店が軒を連ねる通りがある。
お土産物や、スパで使う石鹸やシャンプーなどを扱っており、その店独自の商品を開発販売している。
レネはその中の一つの店に入った。
ドア開けた途端に様々な香料の混ざった匂いが襲いかかるように流れてくる。
「いらっしゃいませ……あら、レネ」
「こんにちは、ジジさん」
レネの顔を見てぱっと笑って出迎えてくれたのは、ブルネットのカーリーヘアを無造作に束ねた三十代前半の女性店長だった。
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