第8話 お互い様

 頭が痛い。体の節々も骨同士が擦れ合うようだ。腕も熱を持って左腕をじわじわ痛みが這い回る。


 苦しい。いつまでこんな責苦が続くのだと身じろぎをした時、汗をかいている額にひやりとした感触があり、風が通り過ぎた。


 それで目を覚ました。


 体を起こそうとしたら、腕の傷に障り息を飲んだ。


 茶色の髪の女性が駆け寄ってきて起き上がるのを手伝ってくれる。

 甘いけれどさっぱりとした香りが鼻をかすめて、それが彼女の髪の匂いだと気づいた。


「……ここは?」

 泉質管理事務所で彼女はレネ・セローと名乗った。

 そうだった。スパからここに移ってきたのだ。彼女の話では一日近く眠っていたらしい。


 ガウンを肩に掛けてくれた彼女にお礼を言うと、頬がぽっと染まる。


「……すまないが、水を」

 セローがサイドボードにあるポットからグラスに注いで手渡した。

 その水を一気に飲む。

 口の中が切れているようで傷に沁みたが、飲んだ後にほのかに酸味と甘味が残り、レモンのような柑橘系に似たさっぱりとした匂いが鼻から抜けた。

「これは……?」

「薬草茶の湯冷ましです。ただの水より飲みやすいかと思いまして」

 確かに無味無臭の水より味がついていて美味しい。もう一杯お願いするとグラスに注いでくれた。


 セローは失礼しますと言って、リュシアンの顔の前に手を翳し、小さく呟く。

 顔の前の四角く区切られた風景が歪み、水の中から水面を見ているような視界に変わってからオレンジ色になる。


「まだ少し熱があるようですね」

 セローが指を鳴らすと四角いオレンジ色はすっと消えた。

 どうやら体温を測る魔術のようだ。


 辺りを見回すと剣や体術の訓練場のように広い部屋の端にベッドがあり、部屋全体は春先とは思えない程暖かい。

 ベッドの足元の方にはクッションとブランケット、ローテーブルがある。

 床の上に控えて看病してくれたのだろう。


 頭が回り始めると色々なことを思い出した。

 そこではっとしてセローを見る。


 昨日と同じように髪をきちんと纏めている。細い首には、白いハイカラーのブラウスの中にたくし込むようにスカーフを巻いている。


「セロー嬢、その……すまない、大丈夫だったか?」

 昨日のしでかしたことを思い出し、発熱とは別に心拍数が上がる。


「少しあざになりましたが大丈夫です」

 大したことでもないように微笑みを返すが、隠す程跡が残っているのだろう。


 魔獣の毒素に侵食されていたとはいえ、彼女を傷つけてしまったことに変わりない。

 当時の状況や感触、セローの苦悶の表情を思い出し、リュシアンは胃が冷えて重くなった。

「本当に申し訳ない」


 セローはベッドに上って掛け布団の上からリュシアンの足を跨いで向き合った。

 そして、両腕を伸ばしてリュシアンの首を掴む。


 わずかに首を掴む手が締まるが、息を詰める程の強さはない。


 負傷と発熱があるとはいえ、リュシアンは隙だらけの小柄なセローを右手だけでも振り払うことはいつでもできた。


「これでおあいこです」

 セローは口の端を上げた。いたずらする少女のような笑い顔だ。


 その時、首が締まった訳でもないのにとくんとリュシアンの鼓動が跳ね上がった。


 咳払いがしたので二人同時に入口を向くと、ガランが腕組みして立っている。


「おい、レネ。お前も殴って引き離さなきゃなんないのか?」

 セローはリュシアンの首にかけている手を慌てて離し、ベッドを下りた。


「これは、その……お互い様というか……決して危害を加えようとしてしたのではなく、ですね……」

 しどろもどろになりながら歩み寄ってくるガランに説明するが、それには取り合わずガランはリュシアンに具合を尋ねる。

「お加減はいかがですか、スミュール殿。腹減ったなら何か作りますけど」

 冷ややかな視線が上方から下りてくるのを、見上げて受け止めた。


「そうだな、食べやすいものをお願いしたい」

「お粥かオートミールか。それともヨーグルトやプリンの方がいいですか?」

「お粥がいい。でも少し冷ましてくれるか」

 口の中が切れているのでと上目遣いに見ると、ガランは気まずそうに目を逸らした。


「……昨日はすみません」

 セローを救出するための正当防衛だったとリュシアンもわかっている。


 だがリュシアンは指を曲げてガランを呼び寄せた。耳打ちできるくらいの距離まで。


 ベッドに乗り出してきたガランの頬に握った右手を当てた。

 ぺちんという音はしたが、痛くも怪我にもならない程度の強さで。


「おあいこだ」

 ガランは頬に手をあてて瞬きを数回した。セローはくすくす笑っている。


 意表をつかれたガランのきょとんとした表情に、リュシアンも思わず笑ってしまった。


 その後、ガラン特製の適度に温いコンソメのお粥を時間をかけたが全部食べた。


 食事をして体温が上がってくるとまた体がだるくなってきたので横になった。


 ぼんやりとした意識の中で、鼻先をくすぐるさっぱりとした匂いがしてきた。

 汗をかいている顔や首を丁寧に拭ってくれる。柔らかいタオルからも同じ匂いがした。

 拭かれた後は肌がさっぱりする。


「やはり二番源泉の方が肌触りがいいですから、お風呂に入れない時はこちらのお湯で清拭しましょう」

「二番だな。何か匂うけど、何か入ってんのか?」

 配合されているアロマオイルを挙げるセローと、ガランの声がする。


 スパで貸与された寝着の前を開け胸元を拭く手は加減良く、立ち上るアロマの香りに刺激されて目を開けた。


 目に入ったのは、ガランの太い眉と鋭い目つきだった。手にはタオルを持っている。

「あ、起こしてすみません」

 その手つきからてっきりセローが拭いているのだと思ったので、ガランには悪いがちょっと気分が下がる。


「汗をかいていらしたので、先生が来る前に拭いといた方がいいと思いまして」

 セローはガランの横にいるが、ベッドに背を向けて入口を一点に見つめている。


「一応、こいつも嫁入り前なんで、野郎の体を見るのは恥ずかしいんだとかで。すいませんが俺がやってます」

 ありがとうと言うだけ言ったが、形式的だったのは否めない。

 そしてガランもまたそれを感じとってはいるが何も言わず、てきぱきと上半身だけ拭ってくれた。


 お互い様のようだ。

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