第3話 スミュール
スパ側が用意してくれた馬車に乗り込み、朝一番で出発した。
ルヴロワの町を横切り結界壁を越えると急に波のようにうねる大小の丘が現れる。遠くには黒々としたグラン・フリブールの森が見えた。
これから逗留する泉質管理事務所はクラネから聞いていた通り、町と森の中間地点にぽつんと建っている。
馬車が段差で揺れ負傷した左腕に痛みが走り、呻き声を飲み込まなくてはならなかった。
「あと五分程です。ご辛抱ください」
馬車の向かいに座るクラネは心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫だ」
腕の痛みもそうだが、それよりも寒くて仕方ない。マントを着てクッションも敷いているのだが、歯の根が合わなくなる程震えている。
クラネも魔術師のローブを纏っているがそれ程寒くはなさそうなので、今日は冬に逆戻りするような陽気ではないということだろう。
オージェ侯爵夫人と令嬢に見つかっていなければ今頃は湯治療養の開始ができていたのに。
リュシアンは寒気を苛立ちで紛らわそうとしたが、余計に頭が痛くなるだけだった。
スパに着いた途端に二人に出くわした。
王都でも何度か話したことのある上司の家族だったので無碍にすることもできず、当たり障りのないように対応したが、これは神様の巡り合わせだと甲高い声で受付ロビーで騒がれた。
リュシアンの離れに近い部屋に移りたい、お世話を引き受けたい等の要望がスパ側に寄せられ、看護が徹底できないと断ると、侯爵に言いつけると脅してきたという。
これでは治るものも治らないし、スパ側もいい迷惑で他の客にも示しがつかない。
スパの総支配人と医師、そしてクラネを交えて相談したら、泉質管理事務所が町の外にあるでそこでの療養を提案された。
宿泊設備はスパとは比べものにならないというが、人目を気にせず治療や療養に専念できるならそれも仕方ない。
馬車は平屋の建物の前でゆっくりと停まり、クラネに支えられながら馬車を降りた。
訪いを告げると、出てきたのは背の高い黒い髪と目の男性だった。
この男は騎士だ。
歳は自分と同じくらいか少し年上の二十代後半から三十代前半で、見ただけでも鍛えている体つきをしているのがわかる。
「おはようございます、クラネさん」
「おはよう、ガラン君。セローは中かい?」
ガランはドアを開けて中へ入るように促した。
玄関は然程広くはない。だが大人の男性の片腕分位の高さの上り框があり、その上の玄関ホールに魔術師のローブを羽織った女性がいた。
ガランはサンダルを脱いで女性の隣に立つ。
「おはよう、セロー」
「おはようございます、クラネさん」
ミルクチョコレートのような色の髪をきっちり纏め紫がかった青い瞳の女性は、魔術師の挨拶をした。歳の頃は二十代前半だろう。
「こちらが、この事務所の職員のレネ・セローです。そして、こちはら警備担当のマルセル・ガランです」
紹介された二人は、高いところからで失礼しますと言って、魔術師と騎士のお辞儀をした。
「今日からこちらに世話になる。サンタンドル伯爵三男のリュシアン・スミュールと申します」
クラネの紹介を待たずに名乗りを上げた。
実のところ、悪寒がひどくなり立っているのも辛かった。早く中へ入って座りたかった。
二人はわずかな間、呆然とリュシアンを見ていた。
「あの、まず、こちらにお掛けください」
セローが勧めたので玄関ホールへ腰掛ける。ガランは玄関脇の部屋へ行った。
玄関ホールの床はほんのり温かく、清潔そうだしこのまま横になって寝ても気持ち良さそうだった。
「ここは土足厳禁なんですよ」
クラネも隣に腰を下ろし、ここの施設の説明してくれた。その間にセローはお茶を持ってきた。
トレイに載っている白磁のポットからカップに注ぐと、お茶とも呼べないような薄らと緑の色がついているお湯だった。
匂いを嗅ぐと、レモンのような香りがした。一口飲むと、酸味はないのにレモンの香りが広がり甘味があるのに飲んだ後は後味がすっきりしている。
「野草茶です。あ、でも温室で栽培しているものですので」
その辺に生えていたものを煎じたのではないとセローは言い繕った。
体が温まるのでそれだけでもありがたく、リュシアンはカップを飲み干した。
玄関脇から盥を持ったガランが出てきた。中にはお湯が張ってある。
それをリュシアンの足元に下ろし、ガランとクラネの二人掛かりで慎重にブーツを脱がせてくれた。
足を浸けると、足元の冷えは緩和されふわふわとしてきたので気持ちがよくて思わず目を閉じた。
足元が温まると頭がぼーっとしてだんだんと体がだるくなる。
「スミュール様?」
セローの高すぎず低すぎず、わずかに揺らぎのある心地好い声が問いかけてきた。
だが、リュシアンはそれに答えることはできなかった。
♧
野草茶を飲み干して顔を紅潮させたスミュールは、足湯に浸かって気持ちよさそうに目を閉じた。
何となく具合が悪そうだったので顔色が戻ってほっとしたのも束の間、目を閉じたままなかなか開けない。
念のために声を掛けてみたが返答はなく、足を拭くタオルを手にしたマルセルも顔を上げて様子を窺う。
スミュールは目を閉じたまま、隣に座るクラネの肩に倒れ込んだ。
「すごい熱だ」
スミュールの額に手を当てたクラネは驚いて、すぐに寝所へ運ぶように指示をした。
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