第2話 来訪者
壁掛けの時計を見ると十時を過ぎたところだった。
朝の泉質管理報告が終わったら、郵便物のチェックをする。
窓の外に目を移すと、春先のまだ蕾の固い木々の枝が風に揺れて、日差しは日々増していくのに対して地上はまだ支度中の様相だ。
玄関からノックと訪う声がした。
来訪者の対応はマルセルの仕事なので、レネはそのまま手紙を読む。
仕事関係の重要な連絡は文書通信か鏡通信でくるので、郵便で来る手紙はほとんどが案内や勧誘めいたものだ。
中には魔術庁だよりなどもあるが、地方勤務のレネには参加できないような業務外活動の報告や催しの募集ばかりなので、さくっと目を通すだけにしている。
少ししてノックがあり、マルセルが顔を出した。
「クラネさんが来た。レネに用があるそうだ。今足湯にいるから、用意しとけ」
事務所は土足禁止にしている。
温泉の配管が事務所の地下を通っているため冬でも床が温かい。
虫を繁殖させないためと、町外へ足を運んでくれた慰労のために、玄関脇に足湯場を作って来訪者には全員靴を脱いで足湯に入ってもらうようにしている。
初めての人は面倒くさいと言うが、入った後は誰も文句を言わない。それどころか足湯に入りにわざわざ用を作って来る人もいる。
レネはコート掛けに吊るしてある魔術師の制服でもある紺色のローブを羽織り、執務室を出た。
山羊皮と底がフェルトでできている室内履きなので足音をばたばたと立てることはない。
応接室は大きな一枚板のテーブルと椅子があり、室内履きの底はフェルト生地なので床の温かさがじんわりと染みる。
話し声が聞こえてきたのでレネは席を立った。
「おはよう、セロー」
マルセルと共に小柄な男性が現れた。レネと同じ紺色のローブを羽織っているが、上級魔術師の証である銀糸の刺繍で縁取りがされている。
ちなみにレネは
レネは幅の広い袖に両の拳を隠し、握った拳の節を合わせて胸元まで上げる魔術師の礼をした。
「おはようございます、クラネさん」
クラネも同じように礼を返す。
だが、堅苦しいのはごめんだとすぐに解いて椅子に座る。
マルセルがお茶を用意して、その後でブランケットを持ってきてくれた。
「ああ、ありがとう。いやあ、いつ来ても暖かいね、ここは」
足湯で温まったのか、頬を上気させてクラネがお茶を啜る。
四十代前半の額の広い亜麻色の髪のこの男は、ルヴロワの町にあるスパの専属魔術師だ。
ここは国王家の所領であり、スパは公営なので一定の収容人数がある施設には品質管理のために魔術師が派遣される。
スパで泉質が変質していないかをチェックしたり調整したりするためである。
時には治癒系の魔術師も派遣されて、湯治と共に患者の治療を施すこともあるので、スパや湯治療養所にいるのはベテランが多い。
そして、レネが長期休暇を取る時はクラネがこの事務所に来て業務代行をしてくれる。逆にクラネが休みの時はレネがスパの品質管理をする。
今日も休暇の連絡だろうかと思っていた。
だが、今回はマルセルにも同席するように言う。
「実は、患者を預かってもらいたい」
「え?」
レネとマルセルは声を揃えて言った。
「でも、ここは治療設備はありませんよ。私も治癒はまだ勉強中だし」
ここはあくまで、泉質を管理する施設だ。
そういう設備ならスパや湯治専用の療養所の方が揃っている。
「どういう方なんですか」
隣に座るマルセルは、事情がなければこのようなことを言い出さないはずですとクラネに尋ねた。
「貴族だ。第一騎士団に所属している方なんだが、辺境に赴いた際に魔獣に遭遇して負傷したんだ」
「第一騎士団が辺境に行ったんですか?」
国内には第一から第三まで騎士団がある。第一騎士団は麾下に近衛隊がおり、王城や王都の警備を主に担っている。
貴族の子息やエリートから構成されているので、王都を離れることはほとんどないはずだと騎士団についてよく知らないレネにマルセルは説明した。
「第三王子のアンリ様が地方視察に行かれる前の警備の確認だ」
王族の公務なら第一騎士団も随行しなくてはならない。
その前に道中の警備の確認や段取りをするのも騎士団の仕事のうちである。
視察先の辺境伯領地の国境付近で魔獣に遭遇した。
「でも、魔獣創ならスパの治癒系魔術師かお医者さんにお任せした方がいいのでは」
ここに来ても専門外で、何もできないことをレネは言外に匂わす。
「スパだと他にも客がいるだろ」
「他の客に見られたくなければ、離れがあるじゃないですか」
スパには貴賓専用区域があり、貴族や金持ちが療養する時に滞在できる離れがある。特別待遇を受けることができるが使用料金も破格だ。
「できれば誰の目にも触れたくないとの先方の意向でな」
クラネは広くなった額を指先で掻く。
「ここは源泉にも近いし、泉質もスパよりは濃いし、怪我の治癒も早いだろう」
それに加え、この事務所は冒険者ギルドがグラン・フリブールの森に入る前の前線基地として利用されており宿泊設備も整っている。
「でも、スパや湯治療養所のようにはいきませんよ」
広間の床に布団を敷いて雑魚寝するだけで、スパの宿泊設備とは比べものにならないくらい粗末だ。
「仕方ねえよ、先方さんもそれでもいいってんだからさ」
「いつ来るんですか」
「明日だ」
「明日⁈」
「よろしく。じゃあな」
話は済んだとばかりにクラネは立ち上がり逃げるようにいとまを告げた。
レネとマルセルは顔を見合わせた。
「仕方ねえな」
「もっと早く言ってほしいですよね」
二人は諦念を込めた溜息を同時についた。
翌日、来訪した貴族を出迎えた二人は、一目見て事情を理解した。
「今日から世話になる。サンタンドル伯爵三男のリュシアン・スミュールと申します」
少しくせのある金色の髪に南の海のように澄んだ濃く青い瞳。絵本の中の王子様のように整った繊細さのある美貌。
こんな美男がいたら、他のスパ利用者達の衆目を集めてしまい、彼も利用者もゆっくり治療に専念できないだろう。
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