温泉の魔術師と騎士

大甘桂箜

第1話 レネ・セロー

 台所から柑橘系の香りが漂ってくる。


 泉質管理棟から事務所に戻ってきたレネ・セローは爽やかな香りをいっぱいに吸い込み、ファイルを持ったまま台所を覗き込んだ。


「今日は何を作っているんですか、マルセルさん」

 事務所の北端にある台所は決して広いとはいえない。その中を占領するように立ち、オレンジの皮をおろし金で擦りおろしている背の高い筋骨たくましい黒髪の男性に声を掛けた。


「オレンジカードだ」

 振り向きもせずに作業を続けるマルセル・ガランは、粗方擦り終えておろし金についている細かい皮をカンカンと叩いて皿に落とす。


「オレンジカード?」

 レネも台所に入り、並んでいる材料を見た。


「これで作るんですか?」

 マルセルの説明によると、オレンジの果汁と蜂蜜、溶き卵とレモン汁を加えてバターと共に湯煎する。オレンジの皮を混ぜて冷めたら出来上がりだという。

 パンに塗ったり、ヨーグルトに入れてもいいと続ける。

 まだ食べていないが、想像するだけでも美味しそうだ。


「仕事は終わったのか」

 皮を擦ったオレンジを包丁で半分に切り、レモン絞り器の尖ったところに押し当てると、大きな手を捻って果汁を絞り出す。

 レネだったら数回ぐりぐりしないと絞りきれないが、マルセルはたった二度でそれを済ませてしまった。


 袖をまくった彼の腕や血管の浮いた手を見ると、それで充分なのがよくわかる。


「はい。午前中の泉質は問題ありませんでした」

 先週金曜日とほとんど変わりはなく、魔術で調整する必要もない数値だった。


 昼前には終わるからと言われ、レネは台所を後にした。


 台所からダイニングを通り、廊下に出て事務室に入る。

 机の引き出しから紙を出し、ファイルの泉質管理表の先週のページを広げる。


 机から出した紙をそのページの上に乗せてから小さく呪文を唱えると、上に乗せた紙に文字か浮かび上がる。

 下の泉質管理表の文字が転写されたのだ。


 上下の紙を見比べて誤植がないか確認をしてから転写した方の紙を数回折り、またしても呪文を唱える。


 紙はぽうっと淡い光を放ってから消えた。

 これで本部への報告は終了だ。


 レネはファイルを棚にしまってから椅子に腰掛け、事務机に伏せてあった四角い鏡を立て掛けた。


 木の枠の飾り気のない鏡にはレネの顔が映るが、十数秒後鏡面が白く濁りほんのりと光る。


 鏡面を人差し指で叩くと濁りがなくなり、赤毛の女性が映し出される。

「おはよう、セロー」

「おはようございます、ヴィリエ課長」

 王都にある魔術庁の上司で、月曜日に先週分の泉質管理表の週報を送った後は魔術を介した通信でも送受信報告する。


「週報、確かに受領しました。何か変わったことはありませんか」

「特にありません」

「では、今週もよろしくお願いします」

「はい」

 鏡は白く濁り始め、少しすると濁りが消えてレネの顔が映し出される。


 通信用の鏡を伏せた。


 先週もそのまた前も同じやりとりをした。

 つまり、何事もなく通常業務を行えているということだ。

 それが何よりだと思う。


 バルギアム王国南東にある町ルヴロワは、温泉町として栄えている。

 町中は大きなスパや、旅人でも気楽に入ることのできる大衆浴場、病院が併設された湯治専用の施設などがあり国内外から来訪者は一年中絶えることがない。


 北にある国内随一の温泉街であるバロックに比べると規模や施設は劣るが、数百年変わらない風情のある町並みと穏やかな気候で静かな人気がある。


 源泉は町の東に広がるグラン・フリブールの森にあり、そこから配管設備を通して常時町へ供給されている。


 この森は魔素の充満する森で、魔獣の棲家となっている。

 湧出する温泉にも微量に魔素が含まれているが、人体に被害を与える程ではなく、かえって怪我や関節痛、神経系の病に効果があり、もう一つの源泉からは美肌の効能もあると実証されている。


 この泉質管理事務所はルヴロワの町とグラン・フリブールの森の中間にあり、魔素が規定量を超えていないかを検査する国の施設である。


 泉質の成分分析や町へ供給する湯量の管理が主な仕事であるが、魔素が多い時には魔術で減少させなくてはならないため、魔術庁所属の魔術師が派遣される。


 魔術師になれるのは生まれながらに魔力を持った者で、十歳になると国民は適正検査を受ける。そこで魔力がわずかでもある者は王都にある学校に進学し、魔術師としての技能を身につける。


 魔力を持つ者はごくわずかで、国からは援助があり学校を卒業した後に魔術庁に入庁することを誓約すれば学費は免除される。

 特殊技能職として厚遇される他、公務員となれば安定した収入が約束されるので適性のある者はほぼ入庁する。

 レネ・セローもご多聞にもれずそのうちの一人だ。


 二年王都の魔術庁で勤務した後、この泉質管理事務所に配属となった。今年で三年目である。


 レネは先任から引き継いでから一人で事務所に住んでいた。


 魔素のある森には魔獣もいる。

 町は魔獣除けの結界壁を巡らせているが、一年前に結界の綻びから魔獣が町に入り込んで、物損と軽傷者数名を出す被害があった。


 その事件があってから王国騎士が派遣されることになった。それがマルセルだ。


 彼の赴任にあたり、レネはルヴロワのアパートに移り住んで、事務所にはマルセルに常駐してもらうようにした。


 女性の町外での一人暮らしも危険だと以前から言われていたし、もし魔獣が出没したら騎士である彼なら町へ来る前に制止することができる。


 正直なところレネも彼が来てくれて広い事務所で一人でいる不安がなくなったので、毎日徒歩で片道三十分の通勤でも構わないと思っている。


 マルセルが来てから十ヶ月しか経っていない。

 まだ手探りな距離感もあるが、今のところお互いにいい同僚であった。

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