2-15 逃走 ★ヒース視点
ヒース(マーガレットの従僕)視点です。
――*――
マーガレットが、折れた。
彼女にとってはデイジーよりも実姉の方が大切なのだから、いずれこうなるのはわかりきっていた。だから、焦りはない。
だが、マーガレットが手紙のことを明かすつもりである以上、オレが問い詰められるのも時間の問題だ。これ以上あの邸にいることはできない。
オレは最低限の荷物だけ持ち、買い物を頼まれたように装ってエヴァンズ子爵邸を出た。
エヴァンズ子爵家内には何ひとつ、デイジーやブティック・ル・ブランとの関連を示す『証拠』になるような品は残していない。
デイジーとの関わりについては状況からみて明らかだろうし、特に問題もない。
あの迂闊なお嬢様のせいで、いくらオレが注意深く動いたところで、もはやバレバレなのだ。
だがそれでも、『お願い』ベースでことを運んでいたから、形として残っている証拠を探すのは難しいはず。
そして、年が明けた頃に頼まれた荷物――ブティック・ル・ブランの件にオレが関わっていることを突き止めるのは、ほぼ確実に不可能だと思われる。
郵便屋の査察にでも行けばバレてしまうかもしれないが、そもそもミアが体調不良を訴え始めるまで、まだまだ時間が掛かるはずだ。
――『ブティック・ル・ブラン』と『貴族間で流行中の病』を紐づけられるような勘のいい人間など、教会にいる聖女を除けば、余程の偶然が重ならない限り皆無だろう。
そして、聖女たちは裏切らない。いや、裏切りようもない。
奴らは、『上』から言われたことを疑うようにはできていないからだ。
聖女たちは、生まれた時からそのように『教育』されている。
ミアの体調を悪くさせて、聖女を通じて「病のせいで世継ぎは望めない」と伝え、破談にさせる――まったく、吐き気がするような計画だ。よくもまあ、こんなことを思いつくものである。
だが、従わない選択はできない。逆らうことができないオレも、教会にいる聖女たちと似たようなものだ。
……手紙泥棒だけでうまくいっていたら、ミアに呪いの手が迫ることもなかっただろうに。
罪悪感は当然ある。だが……そんな「もしも」は、時間でもいじくらない限り無理な話だ。
教会に行けばきちんと治るものだというのだけが唯一の救いか。
とにかく、ミアの体調不良にブティック・ル・ブランが関係している可能性が浮上することはないだろう――もし何かのきっかけで気がついたとしても、その頃には、オレはとっくに姿を消している。
いくらウィリアムがついていると言っても、個人的なことでオースティン伯爵家や魔法騎士団の捜索が入る可能性はない。
ガードナー侯爵邸は、直線距離であればエヴァンズ子爵家からほど近い位置にある。市街地へ出るよりも近いぐらいだ。
鍛えられた私兵が警備している正門へは向かわず、すぐ横の細い路地を進む。
そのまま壁沿いに歩いて、裏手にある通用門へ向かった。
背の高い常緑の針葉樹に囲まれた裏口には、全くと言っていいほどひと気がない。
門の手前に設置されている魔道具が、自動的にオレを認証して、扉を開錠してくれる。
花々に満ち、明るく開けたエヴァンズ子爵家の前庭に比べて、ガードナー侯爵邸の前庭は一見して狭い。
しかし、その代わりに、正門から見えない場所にある裏庭は、かなり広大だ。
ガードナー侯爵家の裏手には、隠された納屋がいくつかある。
魔力で封印を施している上に、魔道具を利用して魔法の気配を遮断。さらに、いずれの納屋も草木や壁などで巧妙に偽装してある。
知っている者でなければ、その入り口どころか、納屋自体見つけるのが困難だろう。
オレは念の為辺りをよく見回してから、草木をかき分け、隠された納屋のひとつ――その入り口に立つ。
「――『
その瞬間。
「――へえ、そこにあったのか。ぜーんぜん気づかなかったよ」
「――っ!?」
呑気な声が背中から聞こえてきて、俺はガバッと振り返る。
先程まで影も形もなかったのに、そこには、一人の男がいた。
何の変哲もないコットンシャツにサスペンダー付きのパンツを身につけ、青色の髪を後ろで一括りにしている。騎士たちに比べれば体格も小さい。
少年のようにも見えるが、表情が見えないから年齢は不明だ。ラフな服装に対して、顔に装着している不思議な仮面が、ものすごい異彩を放っている。
男は、樹木に体をもたれさせ、手に持ったガラス玉を数個、上に放り投げては手のひらで受けていた。
「何者だ!? どうやって入った!?」
「名乗るほどの者じゃないよ。ただの通りすがりの少年さ」
そう言って、男は仮面の中でくつくつと笑う。
オレとしたことが、どうやら、ずっと後をつけられていたようだ。
侯爵家に着くまで全く気配を感じなかった。影の者だろう――それも、相当手練れの。
しかも、この裏庭に回るためには、魔道具でロックされている裏門を通るか、正門を突破した上、セキュリティーの万全に敷かれた邸内を通り抜けるしかない。
どうしたら一切騒ぎを起こさずにここまで侵入できるのか、オレには想像もできなかった。
「さて、仕組みも解錠魔法もわかったし、もういいかな?」
「一体何を――」
「こうするのさ」
男は、手の上で弄んでいたガラス玉を五指の合間に挟み、ぼそぼそと何かを呟き始めた。
――魔法だ。
何を唱えているか知らないが、今のうちに逃げさせてもらおう。
今は、戦うよりも、身を守る方が大切だ。
それに、奴らはおそらく、納屋の中にいる彼女を無闇に傷つけるような行動は取るまい。
なんなら、デイジーや侯爵、『紅い目の男』よりも信用できるかもしれない。
生き延びさえすれば、いつかオレ自身の手で――。
オレは納屋から離れるように走り始めた。
後ろからガラス玉がすごい速度で飛んでくるが、オレはヒョイ、と首を倒して避ける。
ガラス玉は、オレより大分先の地面に落ちて埋まった。
オレがまもなく通用門に辿り着くというところで、男の魔法も完成した。
「――『
ブワッ。
男が力ある言葉を発すると同時に、音を立てて、視界を遮る濃い霧が発生する。
「ふん、こんなもの、吹き飛ばしてくれる!」
オレは霧を吹き飛ばすため、すぐに風魔法の詠唱を始めた。生活魔法を除けば、実は風魔法が一番得意なのだ。
「『
オレの手から巻き起こったつむじ風は、周囲の霧を一部だけ吹き散らす。
全ての霧が晴れることはないが、よく知った道だ。何とかなるだろう。
「へえ、風魔法使えるんだ。コソコソするのに便利な魔法しか習得してないかと思ったよ」
「ほざけ、くそ野郎!」
オレは時折『
霧と男の声は執拗に追いかけてくるが、オレは難なく侯爵家の通用門を通り抜ける。
時折霧を払いながら細い路地を進み、ようやく街路にたどり着くと、粘つくような妖しい霧も晴れていった。
オレは、勝利を確信していた。
――その瞬間までは。
「ふん、残念だったな。土地勘のあるオレの勝ちだ」
「あはは、よくできました、俺氏」
霧の中から、なぜか男の満足そうな声が聞こえてきて、オレは違和感を持つ。
その違和感は、すぐに実体をともなって、目の前に現れたのだった。
「――っ!」
「もう、逃げ場はないぞ。観念するんだな、ヒース」
オレの正面には、エヴァンズ子爵と子爵の息子、オスカー。子爵家の執事長、セバスチャンには、いつの間にか背後を取られていた。
そしてその周りを取り囲むように、見覚えのある使用人たちと、見知らぬ紫髪の騎士が一人、立っている。
おかしい。たどり着いた場所も、予定していた場所ではない。
途中で曲がった覚えもないのに、オレの出た場所は、なぜか侯爵邸から何本か分かれ道を曲がったところにある、少し離れた路地だった。
「……くそ、誘導されてたってことか。ちくしょう」
「おとなしく捕まってくれないか。スパイだったとはいえ、二年以上も毎日顔を合わせた仲だ。無闇に傷つけたくない」
侯爵邸の正門から離れてしまったから、援軍も期待できない。
子爵とオスカー、一部の使用人は撒けそうだが、セバスチャンを含め、厄介なのが数人。
そして、紫髪の騎士……あれは化け物だ。オレでは到底敵わない。
さらに、ぼやぼやしていたらさっきの仮面も合流してくる可能性がある。
「……はぁ。わかったよ。投降する」
オレはあっさり諦めて、両手を上に上げたのだった。
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