2-14 トラウマを乗り越えて
お父様とお兄様の帰りを告げられ、真っ先にサロンを出て行ったお母様は、悲鳴をあげた。
「ど、ど、どうしたの!? オスカー! 目を開けて、オスカー!」
急いでお母様について玄関に出て行くと、目に入ったのは――
「お兄様……?」
二人がかりで担がれて、近くの客室へ運び込まれる、兄の姿だった。
その瞼は固く閉ざされ、優しい垂れ目から青い瞳がのぞくことはない。
アッシュブロンドの髪も、薄手のシャツも、ところどころ血に濡れている。
――血。血だ。
血、ち、傷、大怪我、――魔獣、ルゥ君、手が離れて……落ちて……手首に残る血痕――
トラウマが、呼び起こされる。
呼吸が速くなって、目の前が真っ暗になる。足に力が入らない――。
倒れそうになった私をとっさに支えてくれたのは、私の知らない誰かだった。
「お嬢さん、大丈夫か?」
「ち――血、血が、たくさん、死んじゃう」
「大丈夫。オスカー殿は生きている」
「い、いや、死んじゃいや……っ」
「生きている。大丈夫だ、彼は生きている。兄君は生きているぞ」
「え……い、生きて……る?」
生きている。
繰り返されるその言葉に、私の呼吸が、少しだけ落ち着いてきて、視界も開いてくる。
そうだ、ルゥ君だって、生きていたんだ。
たくさん出血したけれど、生きていた。
血を怖がる必要なんて、ないんだ――。
目の焦点が合う。
そこには、魔獣も、崖も、手首に残る血痕もない。
ぼんやりと見上げると、私を支えてくれていたのは、紫色の髪と瞳の、中性的ないでたちの騎士だった。
「ああ、生きている。だが、すぐに治療をしなくては」
紫髪の騎士は、私を支えたまま耳元に唇を近づけ、私にだけ聞こえるように囁いた。
「――ミア嬢というのは君のことだな? すぐに兄君を治癒できるか?」
男性にしては高く、女性にしては低い声だった。
至極冷静なその声に、取り乱していた私の心も落ち着いていく。
「治癒……そうだ、私……」
「できるな? 一人で立てるか?」
「……はい」
騎士が支えてくれていた手を離しても、私はもう、ふらつかずに真っ直ぐ立てた。
ゆっくり息を吸って、吐く。
鉄の匂いがして、すこし気持ち悪くなるけれど。何度も。何度も。
――そう。私には、傷を治せる力がある。
私がお兄様を治癒するんだ。
聖女の力を持つ、私にしかできない。
過去の幻影に怯え、トラウマに縛られている場合ではないのだ。
「エヴァンズ子爵、人払いを」
「ああ、わかった。ミア、クララ、セバスチャン、私と一緒にオスカーの部屋へ。すまないが、他の使用人は皆退出していてほしい。シナモン嬢は、部屋の前で見張りを」
「承知した」
「お父様っ、わたくしは? わたくしも、お兄様のそばにいていいでしょう?」
焦りを滲ませた声で、マーガレットが問いかける。
だが、お父様は、申し訳なさそうに首を横に振った。
「マーガレットは自室で待機だ。すまない、シェリーと何人かで、一緒にいてやってくれないか」
「嫌よ! どうしてわたくしだけ? ねえ、お兄様は、どうなさったの……!?」
「後で話す。シェリー、頼む」
「マーガレットお嬢様、参りましょう」
「嫌よ! 離して!」
マーガレットには申し訳ないが、私の聖魔法を見せるわけにはいかない。
両側から使用人に抱えられて、マーガレットは引きずられていった。
私とお父様、お母様、執事長のセバスチャン。
私の出生の秘密を知る者だけで、お兄様の寝かされている部屋に入る。
先程私を支えてくれた騎士が扉を閉め、外に控えた。
あの騎士も、私の秘密を知っていた――信頼できる人なのだろう。
お兄様は、かなり血を失ったようで、青白い顔をしている。
しかし、確かに息があった。
血だらけだが、大丈夫。もう、取り乱したりしない。
ルゥ君も、生きていた。
お兄様の生命も、繋いでみせる。
私は強く願いながら集中を高め、『
*
聖女の奇跡、聖魔法。
白い治癒の光が、お兄様の傷を癒していく。
光が消えると、ベッドに寝かされていたお兄様の呼吸は、もう、すっかり安定していた。
顔つきももう、穏やかだ。あとは目を覚ますのを待つだけである。
「……これで、もう、大丈夫です」
力をたくさん使った私は、顔を上げた瞬間に、ふらりと
すぐにお父様が私を支え、ソファーに座らせてくれた。
「ミア……本当に、なんと言ったらいいか……」
お父様は、声を震わせ、軽くハグをした。
「ミア、ありがとう……! オスカーを救ってくれて……ああ、ミア、あなたがいてくれて良かった」
お兄様の手を握って祈りを捧げていたお母様は、呼吸が落ち着いたのを見て、その手をそっと離す。
そして私のところへ駆け寄ると、お父様と代わり、ぎゅう、と私を抱きしめたのだった。
「お母様……お父様……。お役に立てて、良かったです」
私は、震えているお母様を抱きしめ返す。
お父様は、抱きしめ合っている私とお母様、そして穏やかに寝息を立てているお兄様を見て、目元を押さえた。
執事長のセバスチャンは、お湯に浸した布でお兄様の顔や身体を拭っていたが、その顔は先ほどまでと異なり、穏やかなものに変わっている。
「それにしても……何があったの?」
しばらくして、ようやく私を解放したお母様が、お父様に問いかける。
お兄様の傷は、かなり深かった。
多数の切り傷があったが、特段大きな傷が、腕と脚、そして脇腹についていた。
怖くてあまりまじまじと見ることはできなかったが、鋭利な刃物か魔法で切り裂かれたかのような傷だったと思う。
確か、お父様とお兄様は狩りに出掛けていたはず。
だが、明らかに矢傷でも、動物によってつけられた傷でもなかった。
「……ヒースの仲間に、やられたんだ」
「え? ヒースの……?」
「完全に油断していた……ヒースが捕まった途端、突然姿を現した男がオスカーを人質に取ったのだ。私たちは仕方なくヒースを解放した。だが、それにも関わらず、男はオスカーを攻撃したんだ」
お父様は、話しながら思い出したのか、ぶるりと大きく身震いをした。
「あの場所から教会は遠く、馬も攻撃されて動かせる状態になかった。この邸なら足で戻れる距離だったから、邸に戻って魔法通信で聖女を要請するつもりだったのだが――もう、その必要はなさそうだな」
お父様は、私の方に感謝の眼差しを向けて、優しく微笑んだ。
私も、お兄様の生命を救うことができたこと、そして聖魔法が役に立ったことが嬉しくて、口元を緩める。
「オスカーが助かって、本当に良かったわ。……けれどその前に、そもそもあなたたち、狩りに行ったのではなかったの? どうしてヒースが出てくるの?」
「フェイクだよ。子爵家に入り込んだスパイを炙り出すための作戦だ。本当は、ずっと、邸のそばで張っていたんだ。話すと長くなる――」
お母様の問いかけに答え、お父様は今回のことを詳しく話し始めた――。
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