1-35 少しずつ、近くへ



「……ねえ、ミア。覚えている? 婚約の席で、『ミア』と『ウィリアム』として、初めて顔を合わせた時のこと」


 ウィリアム様は、懐かしそうな目をして、ふっと笑い、優しく問いかけた。

 私は、何も言わず、ただ頷く。


 ――あの日のことは、ありありと思い出せる。

 ルゥ君と全く同じ瞳の色に驚いて、思わずウィリアム様のことを「ルゥ君」と呼んでしまったことも。

 そして、熱に浮かされたように、婚約の書類にサインをしたことも。

 今浮かべている優しい表情からはかけ離れた、冷たい態度も。


「――あの時、君は私を見て、『ルゥ』と口走ったよね」


「……やはり、気付いておられたのですね」


「うん。あの時、俺がどれだけ葛藤したか。君に伝えたい、けれどまだ時期尚早だ……『ルゥ』ではなく『ウィリアム』である俺を見てほしい、全てはそれから……ぐるぐると頭の中で考えていたら、どう接したら良いのかわからなくなって――」


 ウィリアム様は、ぎゅっと、眉を寄せる。

 その表情は苦しそうで、申し訳なさそうで。

 後悔し、反省し、まるで懺悔をしているようだった。


「それで、結果的に、冷たい態度になってしまった。心底、後悔しているよ。もし、最初からちゃんと、……あ、いや、私が……」


「ふふっ」


 私は、思わず笑ってしまった。

 完璧に見えるウィリアム様でも、うまくできないことがあるのだ。


 笑いごとではないかもしれないが、少なくとも私の前では飾らずにいてほしいと、そう思う。

 自分から何かを話すのが苦手なんだったら、私から問いかければいい。

 婚約当初は、私から話しかけて氷の目で見られるのが嫌だったから、自分から何かを問いかけることを控える癖がついてしまったが――これからは、そういう遠慮を持たない関係を作っていけばいいのだ。


「ウィリアム様、ご無理なさらなくて良いのですよ」


 そう、お互いに。

 礼節は大切だが、過剰な遠慮など持たなくていい。


「――私、ウィリアム様の飾らないお姿が好きですわ。ご自分のことを『俺』とおっしゃっても、丁寧なお言葉を使わなくても、構いません。私の前では、無理に背伸びなさらないでほしいのです。その方が、親しい感じがして素敵ではありませんか?」


「ミア……」


 私が想いを込めて微笑みかけると、ウィリアム様は嬉しそうに頬を染めた。


「わかった、そうさせてもらうよ。――じゃあ、俺からも、一つお願いをしていい?」


「ええ、何でしょうか」


「俺のこと……ウィルって呼んで」


「えっ」


 私がビスケ様に嫉妬した原因でもある、ウィリアム様の愛称。

 その名を呼ぶことを許してもらえるのは、素直に嬉しい。


「……でも、よろしいのですか……?」


「もちろんだよ。――俺も、その方が親しい感じがして、嬉しいな」


「……わ、わかりました」


 ウィリアム様は、期待に満ちた目でこちらを見つめている。

 先程はビスケ様が羨ましく思えたが、実際呼ぶとなると、すごく気恥ずかしい。


「――ウ、ウィル様」


 私は、意を決して、小さく彼の名を呼んだ。


「――っ、ミア……もう一回」


「ウィル様」


 ぱあっと、ウィリアム様――いや、ウィル様の顔が華やぐ。

 瞳が潤み、頬も赤くなっていたけれど、私がその表情を見ることができたのは一瞬だった。

 彼が隣から手を伸ばし、私をふわりとその腕の中に包み込んだからだ。


「嬉しい……後にも先にも、ミアにこんな風に呼んでもらえたのは初めて……」


「後にも先にもって……大袈裟ですわ」


 彼はちょっと喜びすぎだけれど、私の顔もきっと真っ赤だ。

 私は、自分の熱を隠すように、ウィル様の厚い胸板に額をすり寄せた。

 爽やかで甘いシトラスの香りが強くなって、なんだかくらくらする。


今回・・の俺、幸せすぎる……守るぞ、絶対に。この先、三年経っても、五年経っても、何十年経っても、俺は絶対にミアと一緒に生きていく」


 ウィル様は、なにやら決意を新たにしたようだ。

 私は、彼の胸にそっと手を当てて身体を離し、その顔を見上げた。

 美しく整った面輪は、とろけるような微笑みをたたえて、私だけを見ている。


 彼の言う『今回』が何を意味するのかはよくわからない。

 けれど、強い意思のこもった目で見つめられると、私まで胸が熱くなってくる。


「あの、ウィル様……」


「――っ、やっぱり嬉しすぎる」


 ウィル様は、恥ずかしそうに片手で顔を隠す。

 けれど、その薔薇色の頬は隠しきれていない。

 なんだかその仕草が可愛くて、私はくすりと笑いをこぼす。


「……ねえ、ミア」


 ウィル様は、手をどけて私を見つめ直すと、私のおとがいに指をかける。


「――いい?」


 彼は、ねだるように甘い声で問いかけると、私の唇を長い親指で一度、つう、となぞった。

 目を細めて近づいてくる美しいかんばせに、私は――


「――だっ、駄目です!」


 指をバッテンにして彼の口元に当て、それを阻止した。

 ウィル様は、眉をハの字にして、しょんぼりする。


「ええ……駄目なの?」


「きょ、今日は駄目です! 目が腫れてるし、お化粧もきっと落ちてるし、可愛くないし、そのっ……せっかくなので、ちゃんとしてる時がいいですっ」


「……そっか。今日のミアも充分可愛いけれど、君がそう言うなら諦めるよ。今日は・・・、ね」


 ウィル様は、諦めてくれたようだ。

 そう言って、艶っぽい笑みを向け、顎から指を離した。


「ごめんなさい」


「いいんだ。これからゆっくり、絆を深めていこう」


「はい……ありがとうございます、ウィル様」


 彼は、優しく微笑んで、頷く。


「ところで、贅沢を言うと、『様』も敬語もいらないのだけれど」


「そっ、それはさすがに無理です」


「ふ、そうか。残念。なら、それもおいおい、ね。――ありがとう、ミア」


「いいえ……こちらこそ、ありがとうございます」


 気恥ずかしくて、私はそっと視線をテーブルに落とし、冷めた紅茶を口にする。

 すっかり冷たくなってはいたけれど、ミルクの甘さで、茶葉の苦みが奥に追いやられていた。

 

 口の中に広がる甘さが、部屋中に広がる甘さが、残っていた苦みを全てを押し流していく。

 先程までの暗い空気も、嫌な感情も、まるで全部が嘘だったみたいに――。



✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚ ✽.。.:*・゚


 次回からウィリアム視点です。

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