1-5 悪夢



 最初のシーンは、ミアの悪夢です。


――*――


◇◆◇


 ざあざあと流れる水音。

 二人分の息遣い。

 遠く頭上で聞こえる、グルグルという唸り声。


「はぁっ、はぁ……ううう」


 私たちは、魔獣に追われて崖から落ちた。

 眼下には増水し氾濫した川。

 私は、かろうじて小さな足場から突き出している頑丈な木にしがみついて、川に落ちることなく踏みとどまっていた。


 けれど――


「もういいよ、手を離して! このままじゃ、君も落ちちゃう」


「はあっ、そ、そんなことっ、言わないで。私は、助けが来るまで、諦めないよっ」


 私と一緒に魔獣から逃げてきた彼。

 彼の命を繋いでいるのは、私の非力なこの腕だけだった。


「俺は、大丈夫。もう、いいんだ……」


 彼は、私が掴んでいるのとは反対側の――血に濡れた手で、私の指を一本一本、彼の手首から剥がしていく。

 魔獣から私を守って、彼は深い傷をその身に受けていた。

 血をたくさん失って青白くなった顔には、安らかな笑顔が浮かんでいる。


「なに、してるの……!?」


 こんなに傷だらけで、この氾濫した川に落ちてしまったら、もう、助からない。

 けれど、無情にも、私の指は彼の手首から離れていく。

 そして――


「ミーちゃん――ありがとう」


 新緑色の残像を残して、あっという間に。

 ――彼は、眼下の濁流に呑み込まれた。


◇◆◇


「いやあぁあぁあーーーっ!!」


 私は嫌な夢を見て、飛び起きる。

 背中にじっとりと汗をかいている。


「はあっ、はあっ……」


 ――大丈夫。見慣れた景色。ここは私の部屋だ。


 心を落ち着かせて、私はベッドサイドの水差しに手を伸ばす。


 窓の側へと行き、カーテンを開けた。

 外は暗い。曇っているのだろうか、月も星も全く見えない闇夜である。

 目が冴えてしまって、すぐには眠れそうになかった。


「ルゥ君……」


 窓に映る虚ろな自分を見ながら、あの時、助けられなかったあの子・・・の名を呟く。


 最近、またあの時の夢を見るようになってしまった。

 原因はわかっている。きっとウィリアム様のせいだ。

 淡い緑色が、ルゥ君とあまりにもそっくりだから――。




 ウィリアム様に初めて会ったのは、婚約が決まったその日のことだった。


 私はエヴァンズ子爵家の長女。

 けれど、外においそれと出せない、訳あり物件・・・・・だ。

 箱入り娘と言えば聞こえがいいが、ただの腫れ物である。


 家を盛り立てるためなら、わざわざ私を使わなくても、兄も妹もいる。

 だからこそ、両親も時折縁談を持っては来るものの、嫌がる私に積極的に婚約を勧めることはしなかった。

 けれど、それでも……いつかは、誰かと婚約しなくてはならない。


 私自身は、旦那様になる人をきちんと愛し、支えてゆける自信がない。

 私の心は、幼い頃から、ずっと同じ場所に囚われ続けているのだから――。



 ルゥ君に対する思いは、友情とか、ましてや恋なんて呼べるほどのものでもない、もっともっと淡い気持ちだったと思う。


 知り合い以上。友達未満。

 どこから来たのか、どこの家の子かもわからない――短い時を一緒に過ごしただけの、同い年ぐらいの男の子。


 けれど、彼は私の心に、消えない大きな爪痕を残して、旅立ってしまった。


 きっとこの心に残っているのは、恋心とかそういうものではなくて、責任感とか、無力感とか、罪悪感とか――そういう類のものだ。

 ルゥ君の遺体も家族も見つからなかったから、私が彼を忘れたら、彼の存在がなかったことになってしまいそうで。

 私が今ここで生きているのは、あの時魔獣から私を守ってくれた、ルゥ君のおかげなのに。


 生きていてはいけない、と思った。

 けれど同時に、生きなくてはいけない、とも思った。

 ルゥ君がもし生き延びていたら、彼はどんな青年になっていただろうか。



 ――ウィリアム様を一目見た時、私はすごく驚いた。

 記憶の中のルゥ君とまったく同じ、ペリドット色の瞳をしていたから。


 けれど、二人は別人だ。

 七、八歳かそこらの華奢な子供が、あんな大怪我で濁流に呑み込まれて、生きているはずがない。

 それに、ルゥ君の髪色は黒じゃなくて、金に近い茶色だった。


 頭ではわかっていた。

 けれど、それに反して――ウィリアム様を一目見た私の口を衝いて出たのは、「ルゥ君」と呼ぶ小さな声。


 私はすぐに誤魔化して挨拶をした。

 ウィリアム様は、何も言わなかった。


 ほんの少し頭を下げて、眉をしかめ。

 婚約に同意する書類にさらさらとサインをして、私の前にその書類を突き出した。


 反射的に……だったのだろうか。

 それとも、記憶の中のルゥ君と寸分たりとも違わない美しい新緑色の瞳に、惹かれたのだろうか。

 何かに突き動かされるように、私はその書類を受け取り、自分の名をサインした。


 こうして、両家の両親も驚く中、速攻で私とウィリアムの婚約が決定したのである。



 だが。

 ウィリアム様には、最初に発した一言が聞こえていたのだろうか。

 後になって、彼は不快そうに眉をしかめながら、こう言った。


「私の名は、ウィリアムだ。君さえ良ければ、今後はそう呼んでもらいたい」


 と。


 冷たい表情、冷たい口調だった。

 名前を間違えたと思われて、不快にさせてしまったのだろう。


 ――サインしなければよかった。

 私の心はすっかりしぼんでしまって、氷の中に閉じ込められたみたいだった。




 あれからウィリアム様と話してみて、ますます、彼とルゥ君は別人なのだという確信を持った。

 婚約当時のウィリアム様は、今と違ってすごく冷たかったのだ。

 にこりともせず、目を合わせてもくれず、話しかけても「ああ」とか「いや」とか「そうだな」とか、一言しか返してくれない。


 望みもしない相手と婚約を結ばされて、冷たい態度を取っても婚約が覆ることもなくて。

 どうせ突き返されると思って書いたであろう書類を、私が拒みもせず、あろうことかすぐにサインしてしまったせいだ。

 ――本当は、嫌だったに違いない。


 氷のように無表情で寡黙なウィリアム様。

 その気持ちを知ることは、私には全く出来なかった。



 一方、記憶にあるルゥ君は、すごくおしゃべりで表情もコロコロ変わる、明るい少年だった。

 彼は魔法に憧れを持っていたらしく、魔法の話になるともう止まらなくなった。それもとにかく楽しそうに、目をキラキラさせて、身振り手振りも交えて語るのだ。

 話の内容はちんぷんかんぷんだったが、見ているこっちも楽しくなって、つい笑顔になってしまうぐらい。

 私が笑うと、彼も底抜けに明るい笑顔を向けてくれたのを覚えている。



「もう……戻らない。失ってしまった」


 もしもあの時、ルゥ君が命を落とさなかったとしても、私は訳あり・・・の子爵令嬢。

 今となっては彼の身分も定かではないが、供も付けず農村のはずれに一人でいたのだから、きっとルゥ君は平民だろう。

 もう一度会える保証もなかったし、一緒に、対等な関係でいられる未来は、命があってもなくても存在しなかった。


 けれど、やはり思ってしまう。


「……どうして、私だけ生きているの?」


 窓に映る海色の瞳から、つう、と雫が落ちていく。

 彼とよく似たウィリアム様に会うたび、胸の痛みが蘇る。


「ルゥ君……あなたが本当は生きていたら。そしたら、私は、この婚約を受けたのかな……瞳の色が同じというだけの、彼と」


 そんな妄想までしてしまう。

 最近のウィリアム様は驚くほど明るく優しくなったけれど、時が止まってしまった記憶の中のルゥ君とは、やはり違うのだ。


 ルゥ君はずっとご機嫌で、優しい目をしていた。

 細く小さい身体の割に大きな声で、とっても楽しそうに笑う。


 魔法のお話を、たくさん聞かせてくれる。


 髪色も違うし、華奢ではかなげなのに、どこか熱いところのある少年だった。

 あんな風に、氷みたいな冷たい雰囲気をまとってはいなかった。


「もう……戻らないのよ、ミア」


 もう心の中にしか存在しない人だとはいえ、これ以上はウィリアム様に失礼だ。

 この婚約は決定事項。


 私は自分自身に言い聞かせるように言い放つと、カーテンを閉めて再びベッドに潜り込んだ。


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