第20話─VSヴァイオレット、悪魔様登場

 テオドールが、指先をシレーネに向ける。布擦れの音と、自分の早まる鼓動、そして唾液を飲み込む音だけが、耳に入ってくる。

 掌には、尋常ではないほどの汗が滲み出ていた。これで何も返ってこなければ、どうようかという焦燥が、その場の全員に伝わってくるようだった。


「そんなわけない!なあ、違うだろ?違うと言えよ、レーネ!」


 沈黙の末、声を上げたのは、シレーネではなく、ベイであった。ベイは必死にシレーネを見ている。どこでは分かっているのだろう、それを信じたくないのだ。

 しかし、肝心のシレーネは依然として俯いたままだ。


 緊迫した状態が、数十秒ほど続く。沈黙を打ち破ったのは、他でもない、シレーネだった。


「ふ……ふふふ……ふふふふふふ」


 おぞましい笑い声に、ベイの喉がひゅ、と鳴った。

 シレーネは顔を上げる。そこには、か弱き少女の姿はない。ただ狂気に満ちた、道化の女がそこにいた。

 道化師は両手を広げて笑う。


「はいはぁい!ぴんぽんぴんぽん!だぁいせーかぁい!あの腹立つ聖人気取りの女を殺したのもぉ、悪魔を召喚したのもぉ、城下町に大量の魔物を呼び寄せたのもぉ、ぜぇんぶ!アタクシサマがやったことでしたぁ!」


 シレーネはすごーい!と馬鹿にしたような拍手をした。

 シュベルの指示で傭兵が槍なり剣なりを構える。しかし何かバリアでも貼られているのか、彼らは一定の距離以上近づこうとはしない。


「こんなヘーワを具現化した世界なんか、チョーつまんないしぃ、みんなシゲキ足りてなくてヘーワボケしすぎてっからぁ、アタクシサマがホンノーってヤツを思い出させてあげたってワケ。きゃっはあ!アタクシサマってばチョーやっさしー!」


 ベイは驚愕した様子で、豹変したシレーネを見つめた。

 同情とも、侮蔑とも取れる目線を、シュベルはベイに向ける。


「レーネ……?なあ、おい、嘘だろ?」


 悲痛な叫びとも取れるその声を、シレーネは氷のような目で黙らせた。


「はぁ?なに?なんか文句でもあるわけ?」

「レーネは、俺を騙してたのか?」


 ベイが震える声で問うた。シレーネは面倒くさいとでも言うように重苦しいため息をつく。


「そうだけど、何?権力を得るのにいっちばんあんたの傍がちょうど良かったからいてやったダケ。はぁあ、あの女もさあ、コンヤクシャ、なんて位置にこだわんなければ生きてけたのにねえ。カッワイソー、つかウケるんだけど」

「お前……!」


 テオドールの額に青筋が浮かんだ。オーキッドは目をキョロキョロとさせながら、テオドールの腕に触れる。

 しかしテオドールはそれには気づかず、オーキッドの手を振り払った。

 シレーネに向けて手をかざし、魔法を撃つ体制をとる。シレーネはニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべた。


「頑張ってるとこ悪いんだけどぉ、魔法は使えないよぉ?」

「なっ……!」


 シレーネの言う通り、テオドールから魔法が放たれることはなかった。オーキッドは何も言わずに、テオドールを横目で見る。

 シレーネは鼻で笑って、扇を宙に投げ打った。遠くの机の上に乗ったグラスが、扇にあたって倒れる。


「あっひゃひゃひゃひゃひゃ!ざぁんねんでしたぁ!どうしようもないお馬鹿なキミタチ、に教えてあげるけどぉ、セーレーチャンはぁ、悪魔の近くには寄ってこれないのです!」


 シレーネは声高らかに笑った。悪魔との契約者というよりも、悪魔そのもの。明らかな狂気を孕んだ彼女に、誰もが酸素を奪われたような感覚に陥る。


「つぅまぁりぃ……キミタチが魔法を使うのは、フカノーってワ、ケ。ドゥーユーアンダスターン?あ、この場合キャンユーですかぁ?ま、どっちでもいーけど」


 シレーネは白いレースのクロスがかかった机に座って足を組んだ。机に置いてあった紅茶を一口飲んで、床にカップごと捨てる。

 オーキッドは冷めた目で、カップを見た。


『……そこにいたんだ』


 オーキッドの呟きに、テオドールがん?と反応を示した。


『僕、彼女が見えてないんだよね。声も聞こえてない』


 テオドールが目を見開いて、オーキッドを見た。


『いることは雰囲気と……あと会話から分かってたんだけど、どこにいるのかがどうにも……今ようやくティーカップの存在でどこにいるか分かったよ』

「それでさっきから困った顔してたのか……早く言えよ」

『言うタイミング逃して……』


 シレーネが登場して直ぐに、話が始まってしまったのだ。脇役ならまだしも、テオドールは中心人物。話の真っ最中に水を差すわけにはいかなかった。


「ちょっと、何と話してるんですかぁ?独り言とかキモイんですけどぉ。ゲンジツトーヒってヤツ?やっばぁ」


 シレーネが、虫でも顔に飛んできたかのように、顔を顰めた。

 テオドールもアンもシュベルも、困惑したような顔を見せる。

 オーキッドは、やれやれと肩を竦めた。


『悪魔に侵食されすぎてるんだ。だから僕には存在が見えない。で、悪魔にも精霊は見えないはずだから、多分彼女にも僕は見えてないんじゃないかな?どう?見えてそう?まぁ、厳密には僕は精霊じゃないんだけど、相当悪魔として格上なのかな』

「見えて無さそうだケド……というか、何を呑気なこと言ってるのカナ?結構ピンチじゃないカイ?」


 シュベルが思わず、と言った調子にツッコミを入れた。オーキッドはそうは言ってもねえ、と返す。

 シレーネは顔をゆがめて、テオドールたちの方へ歩いてくる。不味い、とテオドールが剣を抜いた。


「さっきからほんとキモ〜イ。もういいからさぁ、ちゃっちゃとやっちゃってよ!そこのシラガとほっせえメガネはともかく、合法ショタには生きてて貰っちゃ困るんだよねぇ」

「ご、ごうほうしょた……」

『いきなり何言ってんの?』

「お前には聞こえてないから俺が変人扱いされるのムカつうぉわ!?」


 現れたのは、大量の、何十匹何百匹といる親指サイズの蟲だった。

 辺りが発狂と混乱の渦に巻き込まれる。あっひゃひゃひゃ!とシレーネの汚い笑い声がホール内に響いた。

 オーキッドは何?と困惑している様子だ。


「お前これも見えてないのか!?」

『いや、見えてるよ。いっぱいいるね』

「なんでキミさっきからそんなに冷静なのカナ!?」

『え……いや、別に怖くないじゃん。ほら』


 オーキッドが手を伸ばすと、蟲が一匹指先に止まった。バルディオはぎょっとした様子で、軽い悲鳴を上げて後ずさる。アンはバルディオを呆れ顔で見た。


「いや、毒あるとか考えないのか?」

『んー……?ほら、おいでよ。どこから出てきたのかわかんないけど……』


 オーキッドのそばに、一匹、二匹、と蟲が寄っていく。シュベルやテオドールも流石に、う、と声を上げた。


「捕食されそうで怖いんだが……」

『この子達をなんだと思ってるの?』


 オーキッドが呆れ顔を見せた。そんな中、うん?とオーキッドが宙を見上げる。


「おい、なにやってんだよお前ら!さっさと殺せって言ってんだろ?空中に群がってんじゃねえよ!」


 シレーネが痺れを切らしたように大声を上げた。しかし蟲共は動く様子もなく、オーキッドの近くを蠢いている。

 オーキッドはしばし同じ場所を見つめたのちに、何かを口にした。数匹の蟲共が、テオドールの方に移動する。


「うぉ!?」

『死なないから大丈夫。そのまま剣を落として』

「……信じるぞ」


 テオドールは剣を落とした。その剣を囲うようにして、蟲共が群がる。オーキッドは剣を宙に浮かせて、己の方に引き寄せた。


「アン嬢、彼女見えるよね」

「ええ」

「彼女の心臓の下にカップのかけら持ってって。心臓位置わからなくて」

「……え?ど、どうやって?」

『魔法を使う時と同じ感覚で、動くことを願って。コントロールできるから』


 シュベルの翻訳を受けて、アンは困惑しながらもシレーネのそばに落ちた割れたカップの欠片を見た。浮遊したのを見て、思わず目を丸くする。

 ある一点で、欠片が止まった。シレーネは、あ?と目線を落とす。


「なにこっ……」


 瞬間、隙を逃さず剣がシレーネの心臓を貫いた。オーキッドすぐさま剣を引き抜く。

 時間が止まったかのように、ゆっくりと。ヴァイオレットは前傾し、倒れていく。ベイはシレーネに駆け寄った。


「レーネ!」

「触るな!悪魔に持ってかれたいのか!」


 テオドールが躊躇いなく言い切った。身分の差は気にしなかった。オーキッドは血濡れの剣を床に落とす。


『なんかよくわかんないけど、いけたっぽい?』

「……見えない敵の心臓によく当てるよネ」

『そこはほら、プロだし』


 オーキッドはえっへん、と胸を張った。シュベルはさようですか、と流して、剣の落ちた方を見る。


『さあ、本家本元の悪魔様の登場だ』


 オーキッドの言葉と共に、人の形をした、二本の角を生やした男が姿を見せた。三白眼の瞳に、骨が浮き出ている身体。到底強い悪魔とも思えないほどに貧相な体つきをした男は、しかしそれでも、近づくことすら躊躇うような禍々しい空気を纏っていた。


『お、ラッキー。何でかわかんないけど見える。見えるというか場所がわかるだけだけど』


 オーキッドは不敵な笑みを浮かべた。この緊迫した状態で、よくもまあそこまで余裕でいられるものだとテオドールが感心する。


 男は、辺りそこら中から響く叫び声をものともせずに、シレーネの魂をとらんとしていた。

 オーキッドは、近くの傭兵から剣を抜き取り、力の限りぶん投げた。邪魔をされた悪魔らしき男は、忌々しげにオーキッドを見る。


『あ、僕のこと見えるんだ?よく基準が分からないな。ま、それはいいけど……アンタに力を吸収されちゃ困るんだよね、だから、ソレはこっちに寄越しな』

『断る……と言ったら?』

『僕は邪魔し続けるよ』


 オーキッドは目を細めて、笑った。この場には到底そぐわないオーキッドの雰囲気に、場が呑まれる。


『たかが人間風情に何が』


 オーキッドは投げた剣を宙に浮かせ、男の眉間に突き立てた。


『また会えて嬉しいよ、ロベリオ。さあ、再戦と行こうじゃないか……今度こそ、君の心臓を痛みなく刺してあげるよ』


 ロベリオと呼ばれた悪魔は、ぶわっと全身の毛を逆立てた。


『キ、キサマ……!生きてやがったのか!』

『僕があれ如きで死ぬと思ったの?心外だなあ』


 あはは!とオーキッドが高笑いをする。底冷えするような瞳で、ロベリオを見上げた。


『許してないよ、ローダンを殺したこと。さあ、ラストゲームと行こうじゃないか』

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