第22話─花は散りゆく、蕾は落ちる
ロベリオは舌打ちをすると、ロベリオの周囲に禍々しい青紫色を纏った。脳が揺れる衝撃に、オーキッドはまさか、と目を見開く。
「負担が強いからやらないでおこうと思ったんすけど……初めからこうしとけば良かったっすね?」
ロベリオは片手を掲げた。片手には、黒と紫の混じったようなモヤの塊が蠢いている。
「あまり悪魔を舐めんなよ、ガキどもめが。建物諸共やってやんよ!」
ロベリオがモヤを投げた。オーキッドは咄嗟に、テオドールの方を見る。
『テオ、奪え!魔法吸収くらいできるでしょ!』
オーキッドが叫ぶと同時に、オーキッドは、テオドールに手をかざした。魔法吸収など、テオドールは知らない。けれど、魔法の一種であろうことは想像がついた。テオドールは困惑しながらも、これまでの知識を全て使って、ロベリオの放つ魔法を、全て吸収する。
「ぐ、ぅう……!」
「テオ!」
テオドールが苦しそうに顔を顰めた。アンが思わずといった様子で駆け寄る。
オーキッドは、歯を食いしばりながら、剣を床についた。
『何故だ!?何故魔法を使える!?』
ロベリオが声を荒らげた。使えないはずだ。精霊はこの場に来れないはずで──
ロベリオはなにかに気づいてオーキッドを見た。オーキッドは息を切らしながら笑う。
『僕にも魔力はあるんだよ?』
─といっても、もう使えないだろうけど
という言葉は飲み込んで、オーキッドは力を振り絞って、二本足で立つ。もうテオドールも使えないとみていいだろう。悪魔の魔法をそのまま吸収したのだ、無理もない。
オーキッドはナイフをアンの方に蹴飛ばした。
「血、あげな」
オーキッドはくらくらする頭を必死に働かせながら、ロベリオの攻撃を避け続けている。反撃はしないのか、できないのか。できないのだろう、とその場の全員が気がついていた。
どこからどう見ても満身創痍の様子のオーキッドを、誰も助けようとしない辺りが、何とも腹立たしいと、シュベルは顔を顰めた。否、オーキッドを助けられる人など存在しないのだが。シュベルは己の力の無さに歯痒さを覚える。
「おい、オーキッド!」
オーキッドは、どこからか聞こえた声に、ほんの少し反応を示した。その声はバルディオのものだ。バルディオはオーキッドに瓶をぶん投げた。オーキッドはそれをなんなく掴む。
「精力剤飲んで元気出せ!」
シュベルは、失笑した。全員がこんな時に何を、という目でバルディオを見る。
それでも、オーキッドにとっては救いだったらしい。笑顔を少し見せたオーキッドは、気にする様子もなくさっさと飲みきって、瓶を地面に転がした。精力剤がなんなのかが分かっていなかったこともあるだろうが。
オーキッドはある一定の体力を取り戻した。ロベリオは何度か貴族を狙い、オーキッドを動かすことを繰り返しながらも、オーキッドを仕留めようと動く。
しかし、いつまで経っても、ロベリオの攻撃はオーキッドには当たらない。オーキッドは跳ね除けるか避け続けるかで、反撃をする様子もない。
とうとう痺れを切らしたロベリオは、やや回復した様子のテオドールに目をつけた。
テオドールとて、ロベリオからすれば厄介だ。ホフバのもう一人いた
その分、オーキッドはテオドールを誰よりも大事にしているようにも見えた。狙うなら、テオドールの方が先ではなかろうか。オーキッドよりも機動力は少なく、確実に殺せるだろう。
ロベリオは手を振り上げる。そこはテオドールのいる方向とは真逆の、ただの貴族のいる場所だ。オーキッドがそちらに足を運ぶと同時に、ロベリオはテオドールの方へ向かい、テオドールに向かって鋭い爪を下ろす。
テオドールは、アンを後ろに庇って、目を閉じた。逃げる気力は、ロベリオの読み通り残っていなかった。
オーキッドは咄嗟に自身にブレーキをかけて、方向転換をした。体力なんてなかったが、火事場の馬鹿力、とでもいうべきか。
間一髪でテオドールの前に踊り出て、力の限りで剣を前に突きだす。正確性、などとは言ってられなかった。
「か、はっ……」
「キディ!」
オーキッドの剣は、たしかに刺さった感覚があった。狙っていなくとも心臓に刺さったらしい剣に、オーキッドは口角を上げる。どこまで行っても、その正確性は失わないらしい。
呻き声をあげる暇もなく、終わりにしては随分とあっけなく、ロベリオは倒れた。前に倒れた分、柄の部分が床によって押し出され、さらに剣先が背中から現れる。
オーキッドはそれを最後まで見て、膝をついた。オーキッドの胸の下部分には、ぽっかりと穴が空いている。テオドールに向けられたはずのロベリオの長い爪が、刺さった跡だった。テオドールは慌てて、オーキッドの背を支えるように手を添える。
『あいうち、か……』
「何を言ってるんだよ!待ってろ、回復の魔法を」
オーキッドはゆるゆると首を横に振った。
『や、めろ……アンじょー、が、しぬはめ、になる』
「……え」
オーキッドはヒューヒューと喉の奥を鳴らしながら、咳き込んだ。
オーキッドはシュベルの方を見やる。シュベルは顔を歪めた。
「精霊がここには居ないんだヨ。悪魔が倒されたとは言っても、すぐに精霊がここに集まるのは無理。ということは、魔力を持つ者はオーキッドクンとアン嬢しかいないんだヨ。オーキッドクンから魔力を貰うことは不可能だと考えると、アン嬢から魔力を貰うしか方法は無い」
「なら」
「精霊にとっての死は、魔力を全て失うことも含まれてるんだヨ。もちろん、普段は彼らは自分たちで調整してるケド……アン嬢の持つ魔力がどれほどかなんてたかが知れてるし、やったことも無い調整を咄嗟にできるとも思えないヨ。それに、死にかけている人を回復するのなんて、どれだけの魔力が必要になると思ってるのカナ?」
シュベルは顔を歪めながら苦苦しげに言った。アンはテオドールを見据える。テオドールは苦悶の表情を浮かべていた。
アンは意志の灯った瞳を持って、息を吸う。
「テオドール、わたくしの命を使いなさい」
辺りの時間が、止まった。テオドールは呆然と、アンを見上げる。
「…………は?」
テオドールの口から、乾いた声が漏れた。アンはテオドールの瞳を捉えて、逸らすことなく見つめている。
「わたくしだって、オーキッド様に一度救われた身。恩を仇で返すような真似はしないわ。時間だってないし、躊躇う暇があるなら早く」
「や、めて」
オーキッドがかすれた声を上げた。苦しさに歪む顔は、ぼんやりとアンの輪郭を捉えている。
「テオドール。あなたの唯一の親友でしょう。選択肢は一つよ」
テオドールは、目を閉じた。
親友を助けるために、婚約者の命を使うか。はたまた、親友をこのまま殺すか。
いつだったか、オーキッドがテオドールに尋ねたトロッコ問題の話題が頭をよぎる。あの時は、どうでもいい五人を犠牲にしてでもオーキッドを助けると答えた。しかし、今はどうだろうか。
テオドールが、アンをどうでもいいと言えるのか、否か。一度は悪魔と契約したとはいえ、それもテオドールのためだ。アンがテオドールの支えになったことだって、一度や二度じゃない。オーキッドまでではないにしても、咄嗟に蔑ろにしてしまえるだけの関係性であるとも、テオドールははっきりといえなかった。
テオドールは口を開いて、また閉じた。首を激しく左右に振って、泣きそうな顔でオーキッドの手を握る。
「婚約者を犠牲にするほど腐ってない」
アンは悔しそうに、口を引きしばった。オーキッドはどこか満足気に笑みを湛えている。テオドールも分かっていた。アンの命を消費して助けたところで、オーキッドが納得などするはずがないのだ。
思考実験と同等の選択など、いざ同じ場に立ってみればできるはずもない。
「て、お」
「……なんだよ。あんまり喋るな」
オーキッドが薄く笑って、開ききらない目をテオドールに向ける。
「だいすき。てお……ありがと」
オーキッドはそれだけ言って、目を閉じた。ありがとうはもはや、空気の音しかしなかった。しかしそれでも、テオドールにも、それどころか、シュベルにも、アンにも聞き取れた。
完全に力を失われた身体を、テオドールは呆然と見つめる。顔を歪めて、より強く、オーキッドを抱きしめる。
テオドールの瞳から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「っ、ざけんなよ……」
テオドールのオーキッドを抱きしめる腕が震える。オーキッドはもう、何も反応を示さなかった。未だ生温い温度を保つ身体から、動きが無くなる。息苦しさに肩を上下させていたのも、もうすっかりと止まってしまった。
「死ぬの早いって。なあ、おい。キディ。俺はまだお前に言いたいこと全部言えてないんだよ。言い逃げだけしてんじゃねえよ。なあ、なあって。聞けよ、おい。もうちょっとくらい、抗う時間くれよ。なあ!」
テオドールが声を荒らげた。当然のように返事も何も、反応がない。
オーキッドを助けるために誰かの命を消費する気はサラサラ、とまでは行かないが、なかった。
けれど、それでもオーキッドに死んで欲しいわけでも当然なかった。そのことを伝える間もなく、オーキッドは帰らぬ人となってしまった。自分の伝えたいことだけ伝えて、テオドールには何も言わせることの無いまま。
「俺は何も、なにもおまえに……キディに返せてないよ。俺の願いなんでも聞いてくれるって言うならそばにいてくれよ、なあ……なんで俺を庇ったんだよ。なんで、俺を置いてくんだよ!」
テオドールは、泣き叫んだ。もはや何を言っているかさえ、周りの者には聞き取れなかった。
テオドールの慟哭が、協会に響き渡る。何があっても強かであったテオドールが、親友の死を目前にただ涙を流していた。
沈みゆく太陽の光が、窓から差し込む。その光はまるで、オーキッドの迎えに来たように、暖かくテオドールとオーキッドを包んでいた。
時計が六時を知らせる。
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