第11話─精霊の少年、少女の解放

 アンの目が、やや見開かれた。


「そんなこと、可能なの?」

「うん。でも痛い……と思う」

「痛いのはこの際いいわよ。死なないの?」

「死なない。燃える感じあるだけ」


 アンはオーキッドを見つめた。オーキッドは頭を搔く。


「僕の血で、アン嬢の悪魔の血を消す。テオの心配は大丈夫」

「どうして、助けてくれるの?」

「言ったでしょ。他人を傷つけないならどうでもいい」


 テオドールを助けるために悪魔と契約したなら、精霊としてはまだ助けの手を差し出せる。悪魔の血液が精霊にとっては苦手なだけで、もとより悪意のあるもの以外は助ける気はあるのだ。オーキッドとて、その意はある。


 オーキッドに未だ精霊としての役割が残っているかと問われると微妙なところではあった。しかしオーキッドには、成功する自信があった。精霊時代に使えた魔法が未だに使えるのだ。

 純粋な精霊の血液ではないが、それでもアンの契約の程度を考えると不可能ではなかった。


「わたくしは、何をすればいいんですの?」

「するのは食べてからね。店の中は迷惑。森に行きましょ」

「そうではなくて、まさか無償でやるなんて言わないでしょう?」


 オーキッドはぱちぱちと瞬きをして、ああ、と笑った。先程までの作り上げたような、銅像や絵画のような笑みではなく、心の底からおかしくて仕方ないという笑みだ。

 アンはムッとした顔をした。


「な、なによ」

「僕はテオが言うほど善人じゃないですよ」

「……は、はぁ?」

「だから、テオに嘘をつくことは黙っててくださいね」


 オーキッドは楽しそうに、人差し指を立てた。アンはソファの背もたれにもたれかかって、空を仰ぐ。

 オーキッドはもう一度、手を付けられていないレアチーズケーキの乗った皿をアンの側に押した。


「食べないですか?」

「……いただくわ」


 アンはフォークを手に取って、食べ始めた。


「わたくし、あなたのこと嫌いだったのよ?テオの一番であることが気に食わなかったし、噂もあったし」

「知ってます。悪魔の子を好きなのは姉上とテオくらいです」

「なのに、どうしてわたくしにそんな慈悲を与えるのかしら。問答無用で突き出せばいいじゃない。そうしたら、あなたの手柄になるわ」


 オーキッドは、再びケラケラと笑った。咄嗟に店の中出会ったことを思い出して、掌で口を押さえて笑う。


「精霊はそんなもん、です」

「……そう」

「ケーキ、美味しいですか?」

「……美味しいわよ」


 オーキッドはくすくすと笑った。


「そうでしょうね。テオの、お気に入りだから」


 アンティークな鳩時計が、二時を知らせた。



 アンはしきりに周りを見ながら、オーキッドの後をおった。オーキッドはある程度まで進むと、小型ナイフを取り出す。

 そしてなんの躊躇いもなく、人差し指を切りつけた。血が滴る様子に、アンは頬をひきつらせる。


「ひ……!?」

「手。大丈夫、痛くない」


 オーキッドがそう言うと、アンはそろそろと手を出した。オーキッドは指にナイフを伝わせる。血が流れたのを見て、オーキッドはアンの傷口に自分の血液を垂らした。


「……これ、だけ?」

「そう」


 アンは不安げに傷口を眺めた。オーキッドが目を細める。アンは目を見開いた。


「ぅ、あ……っ!?」

「アン様!」


 アンは心臓を押さえて、膝を着いた。近寄ってきたアンの護衛に、オーキッドは全てを任せる。


 やはり、あの段階で護衛を味方につけておいて正解だったと、オーキッドは思考を巡らせた。



 アンと合流してすぐ、オーキッドはアンのそばについていた護衛に声をかけた。


「一つ聞きたいんだけど」

「……なんでしょう」

「何聞いても、彼女に仕える忠誠心ある?」

「あります」


 食い気味に返答をした護衛に、オーキッドはそう、としか言わなかった。その代わり、オーキッドは一つの水晶を護衛に渡した。


「これは……?」

「カフェ、入ってこないで。それ見てて」


 その水晶は、ペアになっているもう一つの水晶の音声を届けるものだった。護衛が乗るかどうかは賭けだったが、案外護衛は易々と了承の意を示した。


 森に行く時には、分かりやすくついてきてもらった。アンがどのような症状を見せるか分からない以上、信頼出来る者がそばにいた方がいいだろうと判断した故だ。護衛は今、オーキッドを睨みあげながら、アンに寄り添っている。アンはすっかりくたびれたように横たわっていた。


「……ひとつ、聞いてもいいですか。先程の話を聞いていて、気になっていることがあるんです。エスパニャーダで構いません、分かるので」

『優秀なんだね。どうぞ』


 護衛の名は聞かなかった。聞いたところで、二度と会いはしないだろうと思っていたからだ。


『何故、テオドール様と親友であるあなたが、テオドール様を助けなかったんですか。これが可能なら、ヘルキャット侯爵にも同じことが出来たのでは無いのですか!』


 護衛は痛ましそうに叫んだ。アンの悪魔を取り除けるなら、テオドールの父親の悪魔だって取り除けたはずだ。そうしたら、アンが悪魔と契約する気もなかったのに、ということだろう。

 オーキッドは、すうっと瞳から光を消した。


『なんで人を傷つけるゴミに恩赦の手を差し伸べなければならないの?』

「……え」

『勘違いしないで欲しいんだけど、アン嬢を助けたのはアン嬢が私利私欲のために悪魔に魂を売ったわけじゃないと信じたからだよ。僕の血を上げれば浄化されるし、万が一何かつつかれても証拠は出てこなくなる。アン嬢がテオに振り向いて欲しいだけの理由から契約をしたのならここまでしなかったよ。テオに言わないで、終わり。悪魔に魂を取られようがどうでもいい。仲良くもないしね、別に』


 オーキッドは近くの切り株に腰掛けて、足を組んだ。


『あるいは、アン嬢が魂を売ったことで誰かを傷つけたなら助けなかっただろうね。弱いものの味方、じゃないけど、そこまで僕は優しくもないよ。つまりね……』


 護衛はギョロりとした目をオーキッドに向けた。


『テオに手を出した時点で、あいつの悪魔を消してやるつもりはないわけ。それに、さっき彼女が言ってたじゃない。勘当どうの、って。僕はテオを助けるつもりだったよ。僕はテオの行く場所ならどこにでもついて行くし、別にアン嬢と一緒にいたいとテオが望むならその方法だって考えたよ。それを勝手に先走って行動したのはアン嬢でしょ?僕に八つ当たりしないで』


 オーキッドははっきりと言い切って、腕を組んで目を閉じた。

 護衛はモゴモゴと口を動かす。


『……もうひとつ、聞きたいんですけど』

『ああ、うん。どうぞ』

『なんで、悪魔の子を否定しなかったんですか』


 オーキッドは口を開いた。しかしそのまま声を出すことなく、口は閉じられてしまう。変わりに、寂しそうな瞳を覗かせた。


『……あの、』

『否定できるほど、上手く話せなかった。悪魔の子じゃないと言える根拠がなかった。そもそも、話すら聞いて貰えなかった。僕は居ない存在だった。母上にとっても、父上にとっても……兄上にとっても』

「……え」

『あの噂を流し始めたのが誰かなんて分からない。従者の誰かかもしれないし……母上、かもしれない。父上かな。そんなの、分からない。けど、そんなの分からないくらいには、僕の存在はなかったことにされてた。話しかけても無視される。放置される。相手になんて、して貰えなかった』


 護衛の顔は、呆然としていた。オーキッドはヘラりと笑う。


「……虐待、じゃないですか。そんなの」

『うーん、そうなの?まあ、だとしても別に気にしてはないかな。僕には姉上やテオがいたし……中等部に入ってからは、いい執事も拾ったしね』


 護衛は眉をひそめた。ああ、この人はきっと愛されて育ったのだろうなと、オーキッドは思った。


「……う、」


 アンのうめき声が聞こえて、オーキッドはアンの方を見た。護衛もアンに声をかける。


「大丈夫ですか、アン様。具合の方は」

「大丈夫よ……というか、なんであなたがいるのかしら」

「オーキッド様に、念の為に来て欲しいと頼まれました。婚約者でもないのに触れる訳にはいかないからと」

「あら、そう……律儀ね」


 アンがオーキッドを見上げて、ふっと笑った。オーキッドは白々しく首を傾げてみせる。


『あ、言っとくけどテオの恋愛感情は今後芽生える可能性はあっても今は消えてると思ってね。口説き落とせるかどうかはそっちの技量次第だから』


 アンは動揺したように目を泳がせた。護衛がアンの耳元で訳を口にする。アンはむすっと頬をふくらませた。


「何から何まであんたの世話になってるようで癪だわ!」

「事実そうでは」

「黙らっしゃい!」

「叫ぶ元気があるなら帰りましょ、送ります」


 オーキッドは立ち上がった。アンはううう、と唸り声を上げてヤケになったように立ち上がる。


「もう!」



「あれ、アンとキディじゃないか」


 オーキッドがアンを送っている帰り、よく知った声が聞こえた。テオドールのものだ。

 オーキッドは振り返って、ニコッと笑った。


「関係なかったよ」


 オーキッドは簡潔にそれだけを伝えた。

 テオドールは何度か瞬きをして、そうか、とだけ告げる。その表情は、どこか穏やかに見えた。


『テオはこれから何か用事?』

「いや、今から研究室に戻るところだった」

『そっか。じゃあ暇ってことだね!』

「暇って訳でもないが……まぁ、予定は無いな」

『じゃあアン嬢送ってってあげて』


 テオドールは、アンの方を一瞥した。


「護衛がいるなら別に送る必要も無いんじゃないか?」

『え〜いいじゃん、お願い!護衛の人と一戦してみたいんだよ〜!今日を逃したら二度とないよ!ね!』


 テオドールは苦笑いをこぼした。そういうことなら、とアンに手を差し出す。アンはおずおずと、手を乗せた。


「……ん?」

「……どうかした?」

「指先、怪我してなかったか?血が滲んだように見えたんだが……あ、ほら」

「え?……あぁ、ほんとうね。気付かなかったわ」


 テオドールは慣れた手つきで、魔法を放った。アンの指がすっかり綺麗になるのを見て、オーキッドは満足そうに笑う。


『うん、ちゃんと魔法は効いたみたいだね。じゃ、僕はこれで。……まさか、邪魔するなんて野暮なこと言わないよね』

『言いませんよ。……あの』


 護衛は難しい顔をしながら、オーキッドに声をかけた。オーキッドは首をゆったりとかしげる。


『僕、カーネル・ラパンです。もし何か困ったことがあったら、言ってください。大人なら動きやすいこともありますから。……僕も、貴族ですしね』


 カーネルはそう言って、礼をした。オーキッドはぼんやりと、カーネルの背を見やった。

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