第12話─悩む青年、笑う少年
「したんだな」
テオドールはぽつりと呟いた。アンがぴくりと反応を示す。そして口をまごつかせて、息をついた。
「……ええ、したわ。といっても、リリィの死の時ではないのだけれど」
アンは掠れた声で告げた。隠しきれないと悟ったのか、隠したくないと思ったのかは、テオドールには分からなかった。
「どうして?」
「ヘルキャット侯が、悪魔と契約していたから。どうにかするには、悪魔で対抗するしか無い……と思ってたから、かしら」
ごめんなさい、とアンが震える声で続ける。テオドールはため息のみを返した。
アンの体が、びくりと震える。
「キディは、全部知った上でお前を許したんだろうな」
「……そう、ね。なかったことにできるなんて思わなかったわ」
テオドールは目を見開いた。そこまでの能力がオーキッドにあることは知らなかったからだった。
「でも、赦されるって、苦しいわね」
「……苦しい?」
「目的がなんであれ、わたくしは赦されざることをしたわ。それは、分かっているの」
分かっているからこそ、赦されることが苦しいわ。
アンは顔を顰めて、そう言った。
「わたくしは、きっと彼に……どうしようもなく嫌いな彼に、鼻で笑って欲しかったのよ。愚かな女だと、言って欲しかった。けど彼は、誰かを傷つけてないならいい、なんて、わたくしを無条件に赦して」
テオドールは、アンから目を逸らした。
「ふ……あなたに嘘をついたと言わないで、というのが約束だったのに、破ってしまったわね。怒られるかしら」
テオドールは苦笑いをこぼした。脳内で、オーキッドが「あ、言ったの?あぁ、そう」と興味なさげに紅茶を啜る姿を思い浮かべる。
「怒らないだろ。あぁ、そう。で終わりだ。あいつはそういう奴」
「不思議ね。今日初めて話したようなものなのに思い浮かんだわ」
「案外、わかりやすいやつだからな。最初は空気感が掴めなくて困惑するんだが、掴んでみれば単純なヤツだよ。他人が傷つくのが嫌で、傷つかないなら別にどうでもいい。助けて欲しいと言われたら、基本はどんな相手でも無条件に手を差し伸べるし……」
「盗賊にも?」
「盗賊は……相手による、かな。切羽詰まっての盗みなら仕事を与えるなりなんなりしてるが、何をやっても無駄だと思うやつには割と容赦なく剣を突き立ててる。あれはこわい。俺に向けられてるわけじゃないのにゾッとした」
テオドールは喉奥でくつくつと笑いながらそう言った。相変わらず、オーキッドの話をする時が一番楽しそうだ、とアンは心のうちでそっとため息をつく。
「ただまあ、あいつが許すからと言って俺も許せるかといったら話は別なんだけどな」
テオドールの低く響く声に、アンは身体を強ばらせた。
「なんで何も言わなかった?言ってくれたら俺だって動いた。悪魔以外の方法だって、見つかったかもしれない。シュベルでも誰でも、頼れる人なんていくらでも居た」
テオドールはアンの方を見なかった。前髪で隠れた目は、静かな影で燻っている。
「そんなに俺を信用してなかった?年下だから何も出来ないと思ってた?自分だって学生の癖に?」
テオドールは立ち止まって、アンに背を向けた。
「じゃ、送り届けたから。キディには礼送っとけよ。あいつ紅茶ならなんでも好きだから」
テオドールは歩き始めた。アンはぎゅうっと手を強く握りしめる。
アンは浅く息を吸って、口を開いた。
「あの」
テオドールが立ち止まって、アンに目線をよこした。前髪で隠れて、アンからはマリンブルーの色は見えない。
「リリィの事件が解決するまでは、そばに、いてもいい?わたくしも、協力したいの」
テオドールは暫く何も言わなかった。十秒ほど、ただ風の音だけが鳴る時間が続く。
「視野狭いってよく言われないか?」
「え?」
「好きにしろ」
テオドールはそれだけを言って、立ち去っていく。アンはぼんやりと、テオドールの後ろ姿を眺めた。
─アン嬢が、まぎれもないテオのために悪魔と契約したとしたら、怒れる?
テオドールはつい数日前オーキッドに尋ねられたことを脳内で反芻した。
聞いた時は、冗談半分だった。たらればの話で、そんなことはありえないと思っていて。そんなことを、して欲しくないと思っていて。
オーキッドの勘、というのだろうか、推理が当たっているとわかった時、テオドールは一度、現実を逃避した。悪い夢でも見ているのかと思いたかった。
どうして、どうして?
そればかりが頭をよぎる。自分のために悪魔に魂を売る意味がわからなかった。オーキッドにああ言ったのだって、オーキッドがまかり間違ってもそんなことはしないと断言できたからだ。事実オーキッドが己のために悪魔と契約したとでも言おうもんなら、間違いなく一発殴っていただろう。
父親が悪魔と契約しただとか、そんなことは驚く程にどうでもよかった。そのせいで母に、自分に、暴力を振るったとて、だからなんだとしか思えなかった。なら証拠でも何でも集めて国に突き出せば良かったのだ。悪魔契約に時効なんてない。すれば一発アウト、良くて死刑、悪くて連座だ。まあ、連座を恐れて選択肢から消したのかもしれなかったが。
「悪魔って言うのはネ、大なり小なり己の意地汚い欲望を持った人間の願いしか叶えないんだヨ。善意で動く人間には、興味がないといってもいいネ。悪意さえなければ叶えてくれる精霊とは、本当に真逆の存在……くく、素晴らしいネ!あ、でも悪意と欲望は二アリーイコールかもしれないケドイコールではないからネ……やすやすと真逆と言ってしまうのも問題カナ……どう思う?」
いつだったか、シュベルがそうテオドールに教えてくれた。否、勝手に語ってくれた、の方が正しいかもしれない。テオドール自身シュベルの語る話の内容を楽しんでいるため、特に不満を抱いたこともない。
今思うと、シュベルがオーキッドに対してなんなく接していたのは、話が通じる相手だったからかもしれない。テオドールはあまりオーキッドからそういった話を聞かなかったが、打てば響くオーキッドに精霊や悪魔の話をするのが好きだったのだろう。真偽の程は定かでは無いが。
どっちにしても、アンがシュベルの言う、「意地汚い欲望」を抱えていたのは確かなのだろう。そしてその欲望がなんなのかも、うっすらとテオドールには心当たりがあった。人の顔色伺いは得意だった。
『話、聞いたみたいだね』
テオドールは、思わず足を止めた。そこには壁にもたれかかったオーキッドが、腕を組んでテオドールを見上げていた。
『そう……話す選択をしたんだ。彼女らしいね』
オーキッドは穏やかに笑っていた。怒りなど、到底見えない。テオドールは、オーキッドに向き合った。
「お前に赦されることが苦しいって言ってた」
『そう。テオは許したの?』
「……許せない」
テオドールは眉間に皺を寄せて、泣きそうな顔で言った。オーキッドは優しい笑みを湛えたまま、そう、と返す。
『まぁ、テオに許されないことで救われる思いもあるんじゃない』
「……お前は、どう思ってる?あいつを」
『分かってるのに聞くの?』
「分かってるから聞くんだ」
オーキッドは上唇を舐めた。
『人間、テオみたいに、物事を俯瞰的に、冷静に見れる人ばかりじゃないんだよ。短絡的発想をする人もいれば、欲に異常に忠実な人もいる。アン嬢は、きっと僕が想像しているよりもずっと幼い』
テオドールは目を閉じた。オーキッドは静かにテオドールの手を引く。
『不安定で、安心出来る場所を探してる。ダメなことをしたら叱ってくれる親の存在が欲しいし、それでも無条件に愛を与えてくれる親の存在が欲しい。悪いことをして、親の注意を引きたい……そんなところかな?彼女の家庭環境を知らないからなんとも言えないけど……アルビノ、ね。うん、独りになるには十分な要素だ』
オーキッドは淡々と、感情を乗せずにただ言葉を風に乗せていく。テオドールの耳には、不思議とすっと入ってきた。
『認めてくれる存在に、依存するのは不思議では無い……よね。ううん、否定なんかできないはずだよ。君は……テオは、僕たちは、否定しちゃいけないはずだ。救いのない世界に、たった一人の人間に未来を、希望を見たことを』
風が吹いて、木から葉が数枚落ちる。二人の間に落ちた葉は、重なり合っているように見える。
『だから僕は助けた。彼女にとって彼が全てで、彼を助けて、彼の全ても彼女であって欲しいと願った、哀れな少女を。どうしようもなく真っ直ぐで、純粋で、なのに報われなかった彼女のことを』
オーキッドは苦笑いして、髪をといた。絡まることも無く下に落ちた指は、その拍子に抜けた髪を地面に落とす。
『どうしようもなく同情したんだ。この悪魔の使い方が、彼を孤立させて依存させようとか、そんなものだったら容赦なく切り捨てたろうし、彼の大切な人が違ったなら、ああ、そう、で終わったのかもしれないけど』
─でも、僕人間だからさ
『身近な人を贔屓しちゃうのは、仕方ないでしょ?』
オーキッドは、頬をかいて言った。テオドールは口を開こうとはしない。
『別にね、テオがアン嬢を許せなくたって、嫌いになったっていいんだよ。自分の考えと合わない考えを受け入れようとする必要も無い。それはテオが決めることであって、僕やアン嬢がどうこう言うことじゃないからね』
「……まだ、自分の気持ちに整理をつけられない」
『うん、それも当然だよね』
テオドールは苦々しげに表情を歪めた。
「許せないけど、そばにいたいと思うのは、傲慢か?」
オーキッドは幾度か瞬きをした。うーん、と人差し指を頬に当てる。
『別に、そういう人もいるんじゃない?ここだけは許せないって部分もあるだろうけど、許せないを覆らせるほどの魅力を感じることもあるだろうしさ。それに……』
オーキッドは身体を起こして、歩き始めた。テオドールはオーキッドの背を見る。
『そばにいたいと思えるほどに大事だからこそ許せないことだって、あると思うよ』
オーキッドは、振り返って言った。
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