第8話 青年の未来、将来の仮説
幼かった頃のオーキッドにとって救いだったのは、近くにアマリリスとテオドールがいたことだった。もともと、精霊時代も知り合いは多くなかった。オーキッドのもとを訪れる人間など王族の坊ちゃんくらいしかいなかった。寂しいとは思わなかった。寂しいという感情を知らなかった。
生まれ変わってすぐに記憶を思い出したわけではない。ただ、生まれ変わってすぐにオーキッドは母や乳母、メイドなどの近くを飛ぶ精霊の姿を見つけた。精霊たちは何から察したのか、すぐにオーキッドに話しかけてきた。
『おきた、おきた!』
『オキッドおきた!』
『あそぼう、あそぼう!』
『おはなししよう!』
オーキッドの周りはいつも静かで、いつも騒がしかった。オーキッドは前世の記憶を思い出すこともないまま、エスパニャーダを覚えてしまった。そして思い出した時にはもう手遅れで、すっかり記憶も脳のつくりもミュゲ時代のものに置き換わってしまった。エルドラーダを習得するのが、不可能に近くなってしまったのである。
しかし、オーキッドにとってはありがたかったことに、ミュゲのいた土地、エジンドーラの母国語は、エルドラーダだった。しょっちゅうミュゲを訪ねてきていた彼らの話す言葉は、エルドラーダだったのだ。めったに使ってはこなかったが、数百年の時を生きたミュゲにとっては、覚えることもそう難しい話ではなかった。聞き取れるだけで、話せも書けもしないわけだが。読むことも、もちろんである。
両親がオーキッドを気味悪がったのがいつからか、なんてことはオーキッドは覚えていない。気づいた時にはもうオーキッドを存在しないものとして扱っていた。「悪魔の子」と陰で呼ばれていたことも知っている。
幼さとは時に残酷で、両親の後を倣うように、兄も距離を置き始めた。そのころからどこかで、あぁ、また僕は孤独に生きるのだ、と、運命を享受しつつあった。
そんなオーキッドに、なりふり構わず声をかけたのが、アマリリスであった。アマリリスはやんちゃで活発で、何よりも走り回ることが好きな子供だった。
「ほら、あそぼ!」
無邪気にオーキッドの手を引っ張って、ぐいぐいと遊びに誘う。はたから見れば強引にすぎないその行為も、オーキッドにとってはうれしかった。自分を認知してくれる人がいることに、歓喜の声を上げていた。
オーキッドは、魔法が使えない。その事実は、さらに「悪魔の子」であるということを裏付けた。使用人すら気味悪がって、オーキッドを相手しなかった。酷いときにはオーキッドの分だけ食事が用意されていないなんてこともあった。そのたびにアマリリスは、自分の皿の上にある料理を、オーキッドによこした。様々な味が入り混じってしまっておいしいとはとてもじゃないが言えなかった。
オーキッドの人生がさらに色づいたのは、テオドールと出会った時のことである。「悪魔の子」として有名だったオーキッドに寄り付こうとする子供など、誰一人としていやしなかった。オーキッドはただ退屈を空を眺めて過ごすしかなかった。そんな中、無謀なのか何なのか、声をかけたのがテオドールだった。
テオドールはオーキッドがエスパニャーダを話すことに、驚きこそしたが馬鹿になどしなかった。そうであることが当然かのように名前を聞いてきた。オーキッドはその段階で、話しかけてきた相手がテオドールという少年だと分かった。わかった理由は魔法でもなんでもない。知らないのだ、この少年は。オーキッドが「悪魔の子」と呼ばれていることを。オーキッドは知っていた。ヘルキャット家は、他家とのかかわりが異常に薄いことを。
ヘルキャット家が歪んでいることは、テオドールの口からいやというほどに聞いていた。いくら騎士家系だといっても、力にものを言わせすぎだ。それも、テオドールに非はない。テオドールはただ魔法が好きで、研究者気質なだけだ。練習をさぼっているわけでもなければ、父親に歯向かっているわけでもない。いったい何が不満なのかがオーキッドにはわからなかった。
『精霊に好かれる人が一定数いるんだけど、テオは最たる例だよね』
ぼんやりと、オーキッドはテオドールの周りを飛び交う精霊たちと遊んでやりながら、そう言ったことがあった。そのときはテオドールに精霊が見えるなんて話はしていなくて、ただなんとなく雑談感覚で振ったものだった。その時にはもう随分仲良くなっていたから、話してもいいとどこかで思っていたのかもしれない。
「俺、好かれてるのか?」
『じゃなきゃあれだけの魔法使えないよ』
テオドールは陰でこっそりと、魔法の練習をしていた。所持属性が多い分、覚えることもコントロールすることも一苦労で、その練習によくオーキッドは立ち会っていた。オーキッドは魔法を使えないから、ただただ眺めているだけなのだが。
『人がいいから好かれるのかな』
テオドールは、オーキッドから見てもなかなかの善人だ。あの家で育ってよく、と口にこそしないが思ったことは何度もあった。その証拠にテオドールは女性人気も男性人気も高く、いつも人に囲まれていた。オーキッドはその光景を見るたびに、テオドールから距離を取って、一人で本を読んでいた。
「その理論ならキディも好かれてなきゃおかしい」
『そんなこと言うのはテオくらいだよ』
「みんな見る目ないんだな」
あまりにもあけすけな言い方に、思わず爆笑してしまったことを覚えている。テオドールはいつでもまっすぐに、好意を伝えてくれる。そのことがオーキッドにはうれしくて仕方がなかった。
『テオが好いてくれてるだけで、僕は十分だよ』
そう笑いながら返したのは、冗談でもなんでもなかった。アマリリスとテオドールさえいれば、誰に無視されようが、「悪魔の子」だといわれようが、バケモノだとののしられようが、どうでもよかった。
「水やり?」
『うん、しおれてたから』
「あ、ねこ!どうしたの?」
「けが、してたから」
「治療してたの?えらい!」
誰も見ていない優しさも、テオドールが知っていてくれるのならば、アマリリスが見ていてくれるのならば、それでよかった。それ以上は望まなかった。
『ねえ、テオ。テオはさ』
オーキッドは、暗くなった窓の外を見ながら声をかけた。雨は降り止む兆しを見せないで、ただ窓をノックしている。まるで借金取りのようだな、と、オーキッドは以前フォーサイス領のある民家近くで見た光景を思い出した。
「ん?」
『アン嬢が、紛れもないテオのために悪魔と契約したとしたら、怒れる?』
テオドールの瞳がぐるりと動いて、薄く笑みを漏らした。苦笑い、にもちかい表情で、オーキッドの顔を見やる。
「どんな状況だよ、それ。嬉しくないし、百年の恋も冷めるぞ」
『悪魔を倒せるのは、上位の悪魔か、あるいは大天使と呼ばれるものかのどちらか。テオに近づく悪魔を倒すなら、悪魔と契約するしか手は無い』
テオドールは、眉をひそめた。なんだよ、それ、と潰れたカエルのような声で呟く。
『僕は、怒れないと思うんだよね。もし、姉上かテオが、僕を守るために悪魔と契約したら……きっと、僕は許してしまう』
「その悪魔って、誰のことを言ってるんだ?誰かのことを想定して言ってるよな」
オーキッドは質問には答えなかった。ただ、淡々と言葉を告げていく。返答など求めていないとでも言うように。
『どっちがいいんだろう。私利私欲のために魂を売った人と、愛する人を守るために魂を売った人と。悲しみたくないのなら、噂に飲まれた哀れな契約者でないことを祈るほかないけど……どちらにせよ、願いが叶えば代償を取られる。その願いが大きいものであればあるほど、その代償も大きくなる』
「さっきから、何を」
『僕は今、ものすごく後悔してるよ』
テオドールは、目を射貫くほど眼光をギラつかせたオーキッドに、息を飲んだ。
やがてその剣呑さを収めた瞳は、柔らかい弧を描く。
『僕は別に、テオが思うほど良い奴でもないんだよ』
「さっきから話が飛びすぎて訳が分からないんだが……?眠いならそこで寝ていいぞ。俺床で寝るし」
『それは別に一緒に寝たらいいじゃん。僕小さいから普通に二人寝れるよ』
「くっついてくるからいやだ。お前体温高いから寝苦しいんだよ」
『それはほら、人肌恋しいってやつだよ』
「どの口が何を言ってるんだ」
テオドールが呆れ顔をしながらも、やや嬉しそうな顔を見せたと思ったのは、オーキッドの勘違いではなかったのだろう。
オーキッドのおふざけのせいであっという間に重苦しかった空気はコミカルに変わって、テオドールもすっかり先程までのオーキッドの様子を忘れつつあった。というより、いつもの事すぎて気にしていないだけだが。
『僕は結構寂しがりだよ?うさぎさんだもん』
「寂しがり屋なのはまあそうなんだろうが……」
『あれ、肯定されるとは思わなかったな。僕別に一人でも平気なタイプだよ』
オーキッドはケラケラと笑ったが、テオドールは切なげに目を細めるだけだった。
「お前が悪魔と契約したら、俺は許す自信があるな」
『あれ、話戻った?』
「お前とならどこにでも行こう。違う国でも、どこにでも。命尽きるまで永遠に」
ここに他人がいれば、プロポーズか、とでも言ってくれたやもしれない。オーキッドとテオドールの間で当然のように交わされる対話は、あまりにも重い。
そして双方共にお互いに重い、というような性格もしていない。
『悪魔と契約なんて死んでもする気は無いけど……まあ、もしその時は地獄にもついてきてね』
「お前の宗教観に今戸惑っている」
『別に、どちらか片方が正解という訳でもないでしょ。僕みたいに新たな生命に魂を移すこともあれば、天国に移る魂も、地獄に移る魂もある。悪魔に売られる魂も、ね。まぁ悪魔に食われたら天国にも地獄にも、生まれ変わりも出来ないけど』
それはある種、精霊として世界を俯瞰した上での価値観でもあった。そもそも元精霊に宗教観もへったくれもないのだが、それをわざわざ指摘はしなかった。
『そう考えると、死んだ瞬間に今までの記憶も全て失われる悪魔の契約は人によっては救いになるのかもしれないね』
「キディは悪魔契約肯定派なのか?さっきからそうっぽく聞こえるんだが」
『僕は否定派だよ。けど』
オーキッドはベッドの上に乗って、寝転がった。そろそろ話が終わる、とテオドールがオーキッドの顔を見つめる。
『テオがどんな選択をしようと、僕は責めないよ』
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