第6話─精霊の来世、言語の壁
『ねぇ、化粧落としたいから洗面所借りていい?』
ベルはごそごそとカバンをあさりながら、テオドールに問いかけた。テオドールは戻って来て早々に椅子に腰かけて、机に向かってしまった。声こそ聞こえなかったが、手を挙げたあたり、勝手にしろということらしいとベルは判断した。
ベルは、すっかり集中してしまったテオドールにやわらかい笑みを浮かべて、化粧を落としに洗面台に向かった。洗面台といっても、どちらかというとキッチンにあるシンクに近いが、特に容姿にこだわっているわけでもないベルにとっては、顔を洗い流せるのならなんだってよかった。
(予備のクレンジング、使うことはないと思っていたけど……持っておいてよかったな)
カバンの中に忍ばせてあったのは、トロープの助言ゆえである。できた執事だ、とベルは心の中で褒めたたえた。そのできた執事に何の連絡もせずにテオドールの研究室にいることは、もはや忘れているらしい。
もっとも、この雨の中、飛ぶ鳥なんざ存在しやしないだろうから、伝えるすべなどテオドールの魔法以外にありはしないのだが。そんな魔法が存在するのかどうかはさておき。
オーキッドは雑に自分の顔をぬぐって、テオドールの元に戻った。テオドールは悩んでいたことが解決したのか、チョコレートを口に放り込んでいる。
テオドールはオーキッドの顔を見て、眉を上げた。
「んぉ、キディだ」
『キディだよ。欲を言うなら服も欲しい』
「貸してもいいが、絶対袖余るぞ」
オーキッドは、だよねぇ、とぼやいた。オーキッドとテオドールの身長差は少なくとも二十センチはある。初等部や中等部一年のときにはたいして身長差はなかったのだが、中等部二年になってテオドールがみるみるうちに高くなっていったのである。
それを見たオーキッドの反応は、『まだ成長期が来てないだけだし』である。完全に負け惜しみだ。
『……脱いでいい?』
「お前が気にしないならお好きに。別に見慣れてるし」
『やん、えっち』
「はいはい」
オーキッドはスカートを脱いで、適当に放った。脱いだといっても下にパンツを履いているため、下着一枚なんてことにはならなかったが。そしてシャツを脱ぎ捨てると、丁寧にスカートとシャツをたたんでカバンのそばに置く。
「……なんか脳みそバグるな」
『やっぱ上は借りていい?寒い』
「半袖でいいか?」
『あぁうん。着れたらいいよなんでも。上半身裸は寒いってだけ』
テオドールは適当なくつろぐ用の服をオーキッドに投げた。オーキッドはノールックで受け取って、頭の上からかぶる。
「ありがとう」
オーキッドはあえて、エルドラーダで礼を言った。テオドールは意に介する様子もなく、ひらりと手を振る。
テオドールは無言でチョコレートの入った箱を差し出した。
「紅茶フレーバーのチョコレート」
『……何の紅茶?』
「これは……なんだろうな、忘れた」
オーキッドは、しばらく箱の中を見つめて、一つ手に取った。口に放り込んで、んん、と声を上げる。
『おいし』
「だろ!?」
テオドールが食い気味に大声で反応を示した。オーキッドは後ろにのけぞって、ぎこちなくうなずく。
微かに上がったテンションが、さらに高いテンションで上書きされたような感覚があった。
「良かった。気に入ってくれなかったらどうしようかと思った」
『さっき言ってたチョコレートってこの話?』
「別に甘ったるくはないだろ?」
『うん、ちょうどいいよ』
テオドールは嬉しそうに笑った。箱を机の上に置く。
「これ、ヘルキャット領で最近開発されたものなんだ」
『へえ!センスいいね!』
「褒めて貰えて嬉しい。俺も相当口出したからな……」
『テオ監修か。どうりで美味しいわけだね』
テオドールが満足気に笑った。オーキッドが手放しに褒めてくれるのが嬉しいのか、随分とご機嫌だ。
テオドールは机の上からもう一つチョコレートを取ろうとした。機嫌が良くなったついでにもう一つ、ということだろう。しかし、取る直前にテオドールはぴたりと動きをとめた。
「なあ、最近食べてもないのにチョコレートが減るんだが」
『え?何?急にホラー?それとも気付かぬうちに食べてるって話?』
「ホラーだ。どこかにしまってるうちはそんなことないんだが、このままぽんと置いとくと……」
テオドールが箱の中身を注視した。地面に座っているオーキッドは、首を傾げる。テオドールは箱の中身を見せた。
「ここのが消えた」
オーキッドは箱の中身をぼんやりと見つめると、あぁ、と手を叩いた。
『さっき精霊がその辺うろついてたから食べたんじゃないかな?』
「精霊ってチョコレート食べるのか!?」
『いや、滅多に人のものは食べないけど……』
オーキッドは机に目を向けた。机の上の貯金箱が動く。オーキッドは貯金箱の裏を呆れ顔で見つめた。
「うぉ!?何!?」
『僕の……魔法?』
「まほ……魔法?なんで疑問形なんだ?」
オーキッドが机の上にある羽根ペンを見た。途端、羽根ペンが浮遊しだす。テオドールはぽかんと口を開けて、羽根ペンを見つめた。
「風魔法……じゃ、ないよな」
『僕もこれ何魔法か分からないんだよね。精霊がついてるわけじゃないからさ、僕には』
「え、そうなのか?話せるし見もするのに?」
『その辺がどうにも……いや、まあ心当たりが全くないかって聞かれるとそうでも無いんだけど』
オーキッドがそう言うと、テオドールは首を傾げた。
『たとえばね、テオ。テオは転生を信じる?』
「えっと……悪い、単語が分からない」
『うーんとね、生まれ変わり』
「……直訳、でいいんだよな?生まれ変わり?んー……多分、他の宗教観だよな?あまり人前で口にするなよ」
オーキッドは苦笑いをこぼして頷いた。
『もちろん、テオにしか言わないよ。今までだって言わなかったでしょ』
「うーん、まあ、そうか。で?生まれ変わりがどうした?」
『あ、聞いてくれるんだ』
「キディの言うことなら信じる」
オーキッドは目を丸くした。そして顎に手を当ててうーん、と唸る。
『前世で恋人だったよ』
「単語の意味は分からないがわかりやすい嘘は見抜くぞ」
『ありゃ』
オーキッドはからからと笑った。
『まあ、冗談はさておき。前世……だから、生まれ変わる前だよね、の、記憶があるんだよ』
「記憶?」
『そう。数百年にも及ぶ記憶』
テオドールは足を組んだ。指がしきりに動き始める。頭を働かせている時の、テオドールの癖だった。
「数百年……っていうと、人間じゃあないな、当然。悪魔か天使か妖精か……まぁ、話の流れからして妖精なんだろうが」
『うん、正解』
さすがだね、とオーキッドが笑った。よせよ、とテオドールも笑う。
『あるのは、精霊、ミュゲの記憶。エジンドーラの王宮近くにある森林で、穏やかに過ごしていた記憶。時に王族の子らが遊びに来て、お供えをしてくれて。そして……』
オーキッドが懐かしむように目を細めた。どこか悲しげな表情を、テオドールはぼんやりと見つめる。
『革命の日以来、ぱったりと彼らは……彼は、来なくなった』
「……彼」
『面白い人だったよ。テオみたいにさ、魔法が好きでね。研究者ってタイプではとてもなかったけど、とにかく無邪気な人だった』
気に入ってたんだな、とは、テオドールは口にしなかった。テオドールはその彼の存在を知らない。歴史を遡れば特定出来そうではあるが、わざわざそうする気もなかった。
『ま、結局僕は寿命で死んだし』
「あるのか寿命」
『命は永遠じゃないよ。生きてる時間が長いか短いかの差はあっても、いつかは死ぬ。もし命が永遠なら、生きるために必死にもならないでしょ』
殺されもするよ。殺すかは、分かんないけど。
オーキッドは淡々と言って見せた。
精霊も感情がない訳では無い。嫌なものは嫌だと言うし、怒る時には怒りもする。だからこそ悪魔と契約した人間のそばを離れていくし、戦争の時には力を貸さない。
もっとも、個体差もあるのだが。感情があるということは、それぞれ個性があるということに他ならない。各々持つ正義感も違うし、価値観も違う。精霊同士喧嘩することだってある。
『この能力は精霊時代のものだよ。精霊それぞれ特有の魔法に似た何かを持ってたんだ』
「……へえ」
『ま、変な目で見られるから使わないけどね』
魔法って言い表すには微妙だし、とオーキッドは付け加えた。
サイコキネシスを始め、テレポートや透明人間になる能力を、精霊はそれぞれ保持していた。しかしどれも魔法と言うには少し特殊だ。サイコキネシスならまだしも、テレポートは魔法で再現不可能だろう。
テオドールは、完全に、とは言わないまでも、これまでの説明でオーキッドが何者なのかを理解したようだった。テオドールも、なにもオーキッドが普通の人だとは思っていなかったため、飲み込むことはそう難くなかったらしい。
「……あの、さあ」
『うん?』
「キディは、悪魔と契約したやつ見たらわかるのか?」
『そこまで悪魔だ!ってピンと来ることは無いと思うけど……嫌悪感は抱くんじゃない?』
「アンを見た時、その感情を抱いた?」
オーキッドは、何度か瞬きをした。そしてゆったりと首をかしげる。
オーキッドは決して忘れていた訳では無い。あの日、テオドールが「アンが悪魔召喚に携わっている可能性がある」と言っていたことを。そして恐らく、その関わっている、というのが、本当に直接的に─悪魔を召喚した側であるということも、既に予想がついていた。
しかしまあ、オーキッドは存外に冷たい人間でもある。友達の友達は友達、なんて考えは一切せず、友達の友達は知り合い、あるいは知らない人である。そしてオーキッドは、わざわざ悪魔召喚をした知り合い程度に手を貸すつもりもない。
『さあ……別に僕は悪魔召喚に関しては特に興味無いからね。あの距離だし、分からなかったよ。まあ、テオが調べろって言うなら調べるし、証言も頼まれたらするけど、そうでなきゃ首を突っ込む気は無いよ』
「じゃあド直球に頼む。調べろ」
「あ、うん」
オーキッドは驚いたように、目を丸くした。人間、驚くと相手の話してる言語に引っ張られるんだな、とオーキッドは頭の端でそんなことを考える。
『頼まないかと思ってたよ、テオは』
「は?なんで」
『好きでしょ、彼女のこと』
オーキッドがさも当然かのように口にした言葉に、テオドールはやや眉間に皺を寄せた。
違った?とオーキッドが聞くと、いや、と短い返事がくる。
「違わないが……」
『それに、別にテオはそこまで正義感溢れる英雄でもないじゃん。もしそうなら大人しく剣士になって家継いでるでしょ』
「……うん、まあ。否定はしない」
オーキッドはテオドールの苦虫を噛み潰したような顔を見つめて、すうっと目を細めた。
しばらく気まずい空気が辺りを漂う。
先に目を逸らしたのは、オーキッドだった。
『僕、アン嬢と話したことないよ』
テオドールはきょとん、とした顔を見せた。そして、オーキッドの言いたげなことを察する。
「追求、しないのか?」
『して欲しいの?』
「いや……」
『別に、いいよ何目的でも。テオが傷つかないなら』
テオドールは、オーキッドの言葉の裏に何か隠されていることを察した。オーキッドはくああ、と欠伸をこぼす。
窓を打つ雨の音が、やけに耳障りに部屋に響いた。
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