第4話─雨宿り少女、研究青年

 激しく窓を打つ雨音に、ベルは目を覚ました。


『すごい雨……』


 ベルが体を起こすと、机に向かっていたテオドールが、羽ペンを置いてベルを見た。ベルは猫のようなあくびを漏らして、目をこする。

 がたがたと、今にも割れて壊れてしまいそうな窓を、ベルは眠そうに見つめた。


「起きたのか」

『うん……ここに逃げ込んでよかったよ』



 数時間前。ベルが学校から帰ろうとしたとき、雨のにおいがした。ベルはすぐさま空を見上げて、雲の動きや色を見た。雲はどんよりと重く暗く、南にある山の方から、学園のある北部に動いてきているように見えた。

ベルは気象予報士ではない。気象予報士ではないが、騎士ゆえにその辺りのことについては誰よりも勘が働くと自負していた。天候によって戦術を変えることが、小柄で筋力も他に比べれば少ないオーキッドにとって、なによりも重要な事だった。

もっとも、この空を見れば誰もが降りそうだ、と思うだろうが。

そうしてベルは帰宅途中に降られることを予測したのである。


 そこまで思考をめぐらせたところで、ベルは問題にひとつ気がついた。

ベルは徒歩通学だ。平民の少女が馬車で登下校していたら怪しいことと、徒歩でも通える位置、もっと言うなれば歩いて三十分くらいのところに家があるから、と、トロープには説明してある。トロープはベルの拙い説得をもって、渋々、という形で了承した。馬車がなくとも自分の身は自分で守れる、とオーキッドが断言したことが一番の許可を出した理由だろう。

 しかしながら、ベルは傘を持ってきていなかった。今まではトロープが持っていたため、自分で持っていく癖がなかったからである。

この時ばかりはさすがに、ベルはトロープに迎えを断ったことを後悔した。


 後悔していたところで、どうにもならないことは分かりきっている。このまままっすぐ家に帰れば、何が起きるか。当然、雨に降られてびしょ濡れである。

 ベルは雨が苦手だ。湿気で服が肌に引っ付く感覚がするのも、気圧のせいで頭が痛くなるのも、地面が滑りやすくなるのも、雨のにおいも、雨が振る音も、雨が窓や屋根を打つ音も、すべてがベルを憂鬱にする。


 そしてベルは五秒も考えずに、踵を返した。

 校舎に戻って向かった先は、本棟の奥に位置している小さめの建物であった。やや薄暗い雰囲気の建物の廊下は、よく足音が響く。

光が漏れ出ている扉の多いこの建物は、学園の所有している研究者用の施設であった。パブリックスクールの建物にしては、あまりにも古びていると感じるのは、ベルの思い違いなどでは無いだろう。窓は強風が吹けば破れてしまいそうなくらいに震えている。

 ベルは慣れた足取りで、階段を上っていった。三階の、手前から数えて四つ目の右側にある部屋。案の定光の漏れ出ている扉を、ベルは爪先でこんこんとたたいた。

 深爪とも言える爪だったが、それでも高く響くような音が鳴った。「どうぞ」とやや乱暴な返事が、ベルの耳あたりをくすぐった。少し籠ったように聞こえるのは、ドアを挟んでいるからだろう。


 中から聞こえてきた声に、ベルは静かに戸を開けた。中ではテオドールが、机の上にある紙とにらめっこをしながら、うんうんうなっていた。


『あ……取り込み中だった?』

「どうぞって言っただろ、気にすんな。どうした?」

『降りそうだったから……』

「降りそう?」


 そこでようやくテオドールは顔を上げた。右側に位置している窓を見て、曇り空を目に移す。


「あぁ……降らないうちに雨宿りってわけか」

『うん。邪魔はしないようにおとなしくしてるから』

「いいぞそんな、気使わなくても」


 ベルは、仮眠用に準備されているベッドに腰かけた。仮眠用とはいえ侯爵令息の使用するものだからか、質は非常にいい。

建物にもその費用を用いたらいいのに、というベルのぼやきに、テオドールが頷いた。単なる相槌ではなく、どうやら同意らしかった。

ベルはそのまま流れるように後ろに倒れた。沈むシーツの感覚に、微睡みがベルを襲う。


『眠くなっちゃった。寝てもいい?』

「キディが気にしないならご自由に」

『よし、おやすみなさい』

「おやすみ。いい夢を」



そうした経緯を得て、今に至る。

テオドールはぐぐ、と伸びをした。


「あー……つっかれた……」

『お疲れ様……終わったの?』

「いや、まだ……なあ、カフェ行かないか?四階のラウンジにあるんだが」

『うん、いいよ』


ベルはベッドから降りて、制服のシワを伸ばした。特に気にせず寝転がったからか、いくつか伸びきらずに、シワが定着してしまったところもあった。ベルは諦めて、カバンの中に入れていたカーディガンを羽織った。スカートのシワはどうにもならなかったが、まあ誰も見やしないだろうと諦めた。

テオドールも立ち上がって、鞄の中から財布を取り出す。


「奢るからお前は手ぶらでいいぞ」

「ん。……デート、だね?」


ベルが首を傾げつつ言ったのに、テオドールが吹き出した。ベルはきょとんとして、テオドールを見上げる。

何も知らないフリをしているが、どうせ何もかも分かって言っている。もう十年にもなる付き合いをしてきたテオドールは、オーキッドがしれっとした顔でふざけるのが好きだということをよく知っていた。


「疲れてる中での不意打ちやめろ。ツボ浅くなってるんだよ。つか誰から聞いたそんなの」

『バルディオ様』

「だよな。だと思ったわ」


あの女好きめ、とテオドールが笑いながら悪態をついた。ベルも薄く笑って返す。


『口説かれたの』

「あいつに?」

『そう』

「っはー、手が早いな」


テオドールは目を丸くした。そして前髪をかきあげながら、じっとベルの顔を見る。


「ま、デートに誘った俺が言えることでもないか」


テオドールはわざとらしく手を出して、にっと笑って見せた。幼い顔には似合わない雰囲気を纏うテオドールを、ベルはぼんやりと眺める。

オーキッドとて侯爵子息だ。テオドールの行動の意図するところは分かっていた。


「エスコートしますよ、野うさぎさん」


ベルは無言でテオドールの手に、己の手を乗せた。男の手だ、とテオドールは思う。骨ばっていて、手のひらにはたこのようなものがある。


『くすぐったいよ、指』


ベルは苦笑いをこぼしながら手を引いた。無意識のうちに、テオドールの指がベルの掌を撫でていたらしい。

ああ、悪い、とテオドールも手を引いた。元々、悪ふざけの一環だ。これといってエスコートをどうしてもしたいという欲も、されたいという欲も双方にはなかった。

見た目はともかく、中身は男同士だし、というのが、二人の心の内である。


特に会話もなく、テオドールは扉を開けた。ベルを先に外に出すと、電気を消して、扉を閉める。丁寧に鍵をかけて、制服のポケットに突っ込んだ。

テオドールが先を歩くのを、ベルは追った。ベルはカフェに行ったことは無い。研究所にだって、テオドールに用がなければ行くこともなかった。


『煙の魔法?』


ベルは、おもむろにテオドールに声をかけた。テオドールは、うん?と聞き返す。


『随分と必死になにかやってたけど』

「あぁ……いや、ちょっと気になることがあって調べていた」

『気になること?』

「そもそもの魔法についてだ」


詳しい話はカフェでしよう、とテオドールが言った。ベルは頷いて、窓の隙間を通る風に、そっと身体を震わせた。


カフェは、建物の内装と同じように、なんとも寂れた空気が漂っていた。古風な、だとか、雰囲気のある、だとか、そんな言葉で表すようなものじゃない。全体的にくすんでいる訳でもないし、ボロボロなわけでもない。だと言うのに、どこか胸の奥がザワつくのだ。


テオドールは、真っ直ぐに、一番奥の、一つ手前の椅子に向かった。ベルにも雑に向かいの席を指して座らせる。上座にテオドールが迷いなく座ったのは、ベルが平民であることを考えてだろう。


しばらくすると、三十代半ばと思われる女性が、雑に水を机に置いた。こぼれた水で少し机が濡れたのに、ベルがやや眉を顰める。テオドールは女性に渡されたナプキンをベルに手渡した。テオドールの方は丁寧に置かれたのか、ガラスの縁に水の跡が見られない。

ベルは机をナプキンで吹いて、メニューを見た。随分長いことカフェは開いているらしく、開店時間は朝の五時から夜の二時までとなっている。ここまで来ると、二十四時間営業と何ら変わりは無い。

メニューは割と豊富だった。コーヒー、紅茶、ソフトドリンクを始め、スイーツやら、ランチやら、もはや食堂となんの代わりもないバリエーションを見せている。一応、学食の方が豪華ではあるが。

ベルは紅茶を頼むことにした。テオドールは悩んでいるらしく、メニューとにらめっこしている。


『何で悩んでるの』

「いや、いい時間だし、晩ご飯も済ませようと思ってな。この天気じゃ迎えも来れないだろうし……いや、晴れでも来ないか」


晩ご飯、と聞いて、途端にお腹がすいたような気がした。ベルは、メニューを再度開く。


「あまり高いのは頼むなよ」

『まあ、そういう時は後で出すよ』

「金持ちめ……」


テオドールはため息をついて、水を飲んだ。テオドールの家は騎士家系だ。テオドールは剣には興味を持たなかったが、それでも代々功績を積み上げてきたようである。

そのせいか、テオドールの父も母も、些か金遣いが荒かった。妹も然り、である。

貧乏侯爵。それがヘルキャット侯爵のあだ名だった。


テオドールはというと、完全に研究で得たお金で生活のやり繰りをしていた。家にお金を置くと無遠慮に使われるため、ほとんど研究所に置いている、というのは、何とも筆舌に尽くし難いものがある。


もっとも、フォーサイス家もそこまで裕福かと言われると、そうでもない。オーキッドがギルドでクエストをこなし、素材を換金し、そこから施しを与えれば、感謝を受けまた仕事やお金が入る。オーキッドが狙って起こしたものでは無い。ないが、それでも連鎖は断ち切れることなく、未だ続いている。


「お前にも、そろそろ援助金の礼を返さなきゃならないんだけどな」


テオドールは苦い顔をしてボヤいた。ベルは目線だけをテオドールに向ける。

オーキッドは以前、テオドールの研究に莫大な援助金を送っていた。テオドールは遠慮したが、問答無用で押付けたのだ。


「まだちょっと、金銭的に余裕が無いんだ。待っててくれ」

『いいよ、別に。あのくらい、どうって事ない』

「そんな訳にもいかないだろう」


律儀な男だ、とベルは目を細めた。

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