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「複数の原作を書かれているのに、私がゲームのタイトルを言わなくても、美波さんはわかってるんですね。その修正案の原稿をデスクのパソコンで再び書き直して下さい。どうせ何を選択しても、トーマス王太子は使用人の娘ではなく公爵令嬢とご成婚する筋書きに変更したのでしょう」


「……どうしてそれを? まだ未発表なのよ」


「ルリアン・トルマリンやタルマン・トルマリンを交通事故で葬るつもりなら、それは認めないわ」


 美梨の剣幕に美波はたじろいている。


「しょせんゲームじゃない。バカバカしい。大体転移とか転生とか現実ではあり得ませんから。それに私はパソコンで書かないのよ。原稿にしか書かないから、書き直す時間なんてないわ」


「やっぱりね。美波さんはパソコンでは何も書けないのよ。あの赤い薔薇の描かれた万年筆がないと、書けないのよ」


「……どうして、それを」


「あの万年筆は作家木谷正子さんの遺品なんでしょう。どうしてあなたが持ってるの? その万年筆を木谷正子さんから盗んだの?」


「バカバカしい。私が他人のものを盗むはずないでしょう。これはオリジナルの万年筆よ。特注で作らせたから、美波のMがイニシャルで入ってるわ」


「違うわ。それは木谷正子さんのMよ。木谷正子さんは不幸な事故でなくなられた。何故かわからないけど、美波さんが趣味で書かれていた小説の登場人物に転生してしまった。もう一本の赤い薔薇の描かれた万年筆を持ったままね。転生したのに現世への思いは消えなかった。とくに一人息子の木谷正さんのことだけは朧気に記憶していた。だから、現世に残した息子に逢いたくて、何度も異世界に導いたのよ」


「よしてよ。薄気味悪い。まるでホラーだわ」


「美波さんは本当は自分では何も書けないのよ。だから、修や私の過去から現在までを探偵に調べさせそれをプロット代わりに執筆した。その赤い薔薇の描かれた万年筆でね。でもシリーズを重ねるごとに傲慢になった。今回でシリーズ完結だから、自分の思い描く結末になるように、選択肢に手を加えるように、ゲーム制作会社に指示をするつもりだったのでしょう」


「バカにしないで。こんな万年筆がなくても私は書けるわ。見てなさい」


 美波は憤慨し、ゲーム制作会社に渡す予定だった修正案の原稿を破り捨て、デスクのパソコンの前に座った。


 キーボードの上で指を動かそうとするが、指は震えて一文字も打てない。美波は焦りから、赤い薔薇の描かれた万年筆を手に取り、抽斗から原稿を取り出した。


「やっぱりパソコンでは何も書けないのね。お願い、美波さん。三田家の調理場で働いている木谷亜也子さんは正さんの妻で、滝川亜子さんは実の娘なのよ。トーマス王太子とルリアンが、どんな選択肢を選んでも最後に幸せなハッピーエンドを迎えられるように、原稿を書き直して」


 美波は「ふん」とそっぽを向いた。


「……書き直さなくても、未公開のラストで、現時点ではそうなってるわ。制作会社の提案でハッピーエンドになるようにしてある。私はそれが気にいらなくて、ゲーム制作会社の編集者にラストの選択肢を変更させるつもりだった。それなのに……それなのに……万年筆がいつものように動かない。変更案の原稿を破り捨てなければよかった……。午後には編集者が来るのよ。どうしてくれるのよ!」


 苛立ち泣き叫ぶ美波に、修が立ち上がり近寄る。


「美波は今幸せか?」


「……修。幸せに決まってるでしょう。美梨さんから正史さんも昂幸さんも奪ったのよ。富と名誉も手に入れた。幸せに決まってるじゃない」


「だったら、美波はどうしてそんなに苦しそうに泣いているんだ? もう欲しいものは全部手に入れたんだろう」


「私が欲しかったのは……。私が一番欲しかったのは……。修だったのよ。それなのにあなたは私を裏切った。セレブなお嬢様を選んだ。悔しかったわ。世の中は全て地位や名誉やお金なんだって思った。だから、最初は憂さ晴らしのつもりで二人のことを調べて原作を書いた」


「美波はそれで幸せになれたのか? 俺は今幸せだよ。美梨と昂幸と優がいる。昂幸は三田の姓になってしまったが、姓も戸籍も関係ない。三田正史さんは血の繋がりはなくても、昂幸を実子同様に大切にしてくれ、慈しみ育ててくれた。三田正史さんは素晴らしい人だ。美波のことも愛しているはずだ」


 応接室のドアが開き、三田正史が入ってきた。予想外のことに三人は驚きを隠せない。美波は体を震わせた。


「……正史さん」


「申し訳ない。中西ご夫妻に挨拶したくて帰宅した。話は全部廊下で聞いてしまった。美波、私は美波を愛している。美波、だからもうやめよう。書けないなら無理してゲームの原作や小説なんて書かなくていいんだよ。その赤い薔薇の描かれた万年筆は木谷正子さんの遺品なんだね? どうしてそれを美波が所有しているのか、私にも全て話してくれないか? 美波は昂幸の義母なんだよ。息子の幸せを誰よりも願っているのだろう」


「……正史さん。私は……私は……打算であなたに近付いた。美梨さんに仕返しするためにあなたに近付いた」


「最初からわかっていたよ。それでも私は美波を愛した。美波は違うのか? 私と結婚して幸せではないのか? だとしたら、私の頑張りがまだ足りないようだね。私は女性を愛するのが下手なんだ。美波が『幸せだ』と中西ご夫妻に言えるようになるまで、美波の傍にいるから、昂幸の幸せを一番に考えてやろう。親として、最も最良な方法で」


「正史さん……こんな私を許してくれるの? 中西さん申し訳ありませんでした。転移や転生のことは非現実的過ぎて私にはわかりませんが、赤い薔薇の描かれた万年筆のことは全てお話します。これは……木谷正子さんのものに違いありません」


 美波は万年筆が木谷正子の遺品だと認めた上で、二千十六年に起きた交通事故について語り始めた。

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