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トーマス王太子殿下はメイサ妃に今日のことを全て話したのだった。メイサ妃はメトロ・ダイヤモンド公爵夫人の写真や文章を綴ったものを一緒に送ったことを、トーマス王太子殿下も知っていると勘違いしたのだろう。
「ルリアン? どうした?」
トーマス王太子殿下は優しくルリアンを抱き締めた。
「深夜零時に宿舎を出るんだろう。秘書も本日限りだ。公務も忙しくしばらく逢えないかもしれないけど、毎日電話するよ」
「……はい」
ルリアンは感極まり涙が溢れた。
「どうしたんだよ。引っ越すのはパープル王国の王都だよ。私達は正式に婚約するんだ。もっと笑ってくれよ」
「トーマス王太子殿下……」
「ルリアンを愛してる。王室に入ることは不安だろうが、私もルリアンと同じだ。マリリン王妃だって同じだ。だから、何も臆することはないんだよ」
トーマス王太子殿下はルリアンに優しくキスを落とした。何度も交わされるキスに、ルリアンの頬に涙が伝う。トーマス王太子殿下はルリアンを両手で抱き上げて寝室に連れて行った。
ベッドの上に降ろされたルリアンは、トーマス王太子殿下の澄んだ瞳を見つめた。
「トーマス王太子殿下、実はメイサ妃からの封書ですが、先日頂いた赤い薔薇が描かれた万年筆のことです。婚約が公表される前に、あの万年筆はメトロ・ダイヤモンド公爵夫人のお墓に収めようと思います。それはメイサ妃も許して下さいました」
「あの万年筆を? メトロ曾祖母様のお墓に? 代々引き継がれ、母がとても大切にしていたものだし、私の将来の妃に渡すようにと言われたのに、なぜ?」
「……それは」
(あの万年筆が、この異世界と現世を繋いでいるから。突然の不幸な事故でこの異世界に転生した木谷正子さんは現世に心残りがあり、何度も義父をこの世界に転移させたに違いない。だから、義父とメトロ様を逢わせてあげたい。メトロ様の記憶の中にある幼子はもう立派な大人で妻もいて、義理ではあるが
「ルリアン、きっと何か事情があるんだね。わかった。ルリアンが話したくなるまで待つよ」
トーマス王太子殿下はルリアンに再び唇を重ねた。ルリアンは最後に強く結ばれたいと願った。この世界でトーマス王太子殿下を愛したことを忘れないように。たとえルリアン《亜子》の魂が現世に戻ったとしても、ルリアンの体にも愛された記憶を残して欲しいと。
「トーマス王太子、私を抱いて下さい」
「ルリアン?」
「お願い……抱いて」
トーマス王太子殿下は優しく微笑み、ルリアンの唇に何度もキスを落とした。
「愛してるよ」
ルリアンの耳元で甘い声が囁く。それでいて愛しい唇は動きを止めることはない。
素肌と素肌が重なる。ルリアンの口から甘い吐息が漏れた。それはトーマス王太子殿下の動きとともに激しくなる。
(忘れないよ……。
トーマスのこと……。
この王宮のことも、この異世界のことも。
そしてこの世界で出逢った全ての人々のことも。
私は亜子じゃない。
ルリアンとして、トーマスを愛し、愛されている。
この一瞬一瞬を……。
絶対に忘れないからね……。)
「トーマス愛してる……」
汗ばむ体を密着させたまま、トーマス王太子殿下はルリアンに何度もキスをした。
「ルリアン、やっと名前だけで呼んでくれたね。愛してるよ、何度でも何十回でも、何千回でも何万回でもこの命がある限り、愛してると言い続ける」
「トーマスったら……。浮気したら許さないからね。第二夫人なんてルリアンは認めないから。トーマスはルリアンだけを愛すと誓って……。何が起こったとしても、ルリアンだけを愛すと……」
「ルリアンが『私』ではなく自分の名前を言うなんて珍しいね。私はルリアンだけを愛すと神に誓うよ」
「このまま午前零時にならなければいいのに……。ルリアンがどこにいても必ず捜してね」
「まるで童話のお姫様みたいだな。ルリアンの引っ越し先は王都だよ」
「わかってる。でもルリアンがどこにいても必ず捜してね。婚約発表までメイサ妃から頂いた赤いドレスと赤いハイヒールはトーマスに預けるわ」
「わかった。母のハイヒールを持って捜しに行くよ。それがガラスの靴の代わりだ」
トーマス王太子殿下はジョークだと思ったのか、笑顔でルリアンを抱き締めた。
ルリアンはその日、真実を言えなかった。
トーマス王太子殿下が抱き締めているルリアン・トルマリンの魂は、現世から転移した別人であるとは、どうしても言えなかった。
トーマス王太子殿下に言えるのは。
この言葉しかなかった。
「ルリアンはトーマスを心から愛しています」
―午後十一時五十五分―
トーマス王太子殿下は使用人宿舎の前までルリアンを送ってくれた。使用人宿舎の前にはタルマンの個人タクシーが停まっていた。後部座席には段ボール箱がすでに幾つか積まれていた。
ルリアンはローザに公用車の後部座席に乗るように指示をされた。別れを惜しむように、ルリアンからトーマス王太子殿下に最後のキスを交わした。月夜に照らされ、二人の抱き合う影だけが小さく揺れた。
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