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「わざとしないで。こちらに唇を向けないで自分で拭いて下さい」
「そんなあ。ルリアンも唇についてるよ。私が拭いてあげるよ」
トーマス王太子殿下が指を近付け、ルリアンは全身で拒絶している。
「やだあ、いいってば」
「ほら、ルリアンこっち向いて」
ペーパーナプキンで唇を拭き合っていると、タルマンがいきなり急ブレーキを踏んだ。シートベルトをしていても、トーマス王太子殿下とルリアンの体は前方に傾く。
「うわ、義父さん危ないでしょう!」
「煩い。トーマス王太子殿下、大変失礼ですが、後ろでイチャイチャしないでいただけますか? 気になって気になって前を向いて運転できません」
(……っ、前向いて運転してよ。それでなくても事故ばかりしてるんだからね。)
「すみません。トルマリンさん、唇にケチャップつけてるルリアンがあまりにも可愛くて」
「ルリアンが可愛い? それはどういう意味ですか?」
「義父さん、違うってば。『子供みたいで可愛い』という意味よ。義父さんは今仕事中なのよ。トーマス王太子殿下は王位継承者なんですからね。ほら、護衛車が真後ろに停まり運転手が怖い顔で睨んでます。私情を挟まないで。私はトーマス王太子殿下の秘書です、秘書秘書秘書、わかった?」
「秘書秘書秘書って煩いな。わかったよ、これは仕事だ。トーマス王太子殿下はちゃんとサファイア公爵邸までお送りするから、安心しろ。トーマス王太子殿下、急ブレーキを踏んで大変失礼しました。これからは安全運転を心がけます。ルリアン、これでいいんだろ」
「当然です。二度と無謀なことはしないで下さい。これは娘としてではなく、秘書として強く申し上げます。トーマス王太子殿下、やはり帰りは公用車にしましょう。義父さんの運転では安全を担保できません」
「そんなことはないよ。トルマリンさんにはハイスクールの頃から世話になった。私を特別扱いしないで、ハンバーガーを買ってくれたり、優しく接してくれた」
「それはトーマス王太子殿下をお連れできるレストランを知らないからです。ハンバーガーが一番安上がりですからね」
ルリアンの主張にタルマンは反論する。
「違うだろ。ハンバーガーはルリアンの好物だからだよ。トーマス王太子殿下、あと一時間くらいでサファイア公爵邸です。それまでに召し上がって下さい」
「ありがとう。サファイア公爵邸まで宜しく頼む」
ルリアンはタルマンが『ルリアンの好物だからだよ』と言ったことが嬉しかった。社会人になったルリアンは自分の収入でハンバーガーくらいいつでも買うことはできるが、学生までは生活にゆとりはなく、ハンバーガーが唯一の贅沢な食べ物だったからだ。
タルマンは何度も事故を起こし、昏睡状態に陥っていたが、目覚めたあとも記憶は曖昧だが、ルリアンの好物だけは忘れてはいなかったようだ。
素直に口に出して『ありがとう』と言えなかった意地っ張りなルリアンの代わりに、トーマス王太子殿下は『ありがとうございます』と言ってくれた。
ハンバーガーを食べながら、再び片手でギュッと手を握ったトーマス王太子殿下に、ルリアンは心の中で『ありがとう』と呟いた。
◇
―サファイア公爵邸―
タルマンが裏道を通り送ってくれたおかげで、トーマス王太子殿下とルリアンは公用車よりも一足先にサファイア公爵邸に到着した。
サファイア公爵邸も本日ばかりは厳重な警備体制だった。個人タクシーの後部座席には金髪の男女が二名。しかもマジシャンみたいな奇抜な格好をした男性と町娘だ。
「待て、本日は隣国より来賓がお見えになる予定だ。身元不明な者は邸内に入れるわけにはいかない」
(だよね、だよね~。私達は誰が見ても不審者だよね。職務質問されて当然だ。)
サファイア公爵邸に入れてもらえない個人タクシー。そこに公用車が到着し、後部座席よりローザが降り立つ。
「これはローザ・キャッツアイさん。ご無事で何よりです」
「途中でパパラッチに追われて大変でしたが、何とかまいてきました」
警備員は個人タクシーの運転手に、『シッシッ』と手を振り上げ、帰るように促す。ローザは警備員の手をピシャリと叩いた。
「無礼者、誰にそのような態度をとっているのです。サファイア公爵邸の警備員のくせに、トーマス王太子殿下のお顔が分からないのですか? 後部座席に乗車されているのは、変装したトーマス王太子殿下と秘書です。さっさと玄関先までお通ししなさい」
警備員は目を丸くしてトーマス王太子殿下を見ている。
「この胡散臭いマジシャンが? いえ、大変失礼致しました。金髪だったのでわかりませんでした。トーマス王太子殿下は黒髪だとメイサ妃より伺っていたので。どうぞ邸内にお入り下さい」
ローザは口元にケチャップがついているルリアンを見て、ニンマリと笑った。
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