これが夢か現実か確かめるために、亜子はそっとベッドを抜け出した。こっそりトーマス王太子殿下の部屋のドアを開けると、廊下に白石アジャ・スポロンが立っていた。


「ルリアンさん、どうされたのです。お久しぶりですね。スポロンです。すっかり綺麗になられて驚きました。またトーマス王太子殿下とメイド遊びでございますか? 例のメイド服ならちゃんと保存してありますが、体が成熟されたのでもう着用できないのが残念ですね」


 スポロンはニンマリと口角を引き上げた。


 (はあ? 『体が成熟されたのでもう着用できないのが残念ですね』とは、このド変態。昂幸の執事白石さんにそっくりだけど、乙女ゲームの執事はアジャ・スポロンなんだよね。本当にゲームのスポロンなの? まるで現実世界みたいにリアルだ。)


「メイド遊びなんてしていません。私はトーマス王太子殿下にお部屋に来るようにと招待されて、少しお話をしていただけです。あなたは白石さんではなくスポロンさんなんですか?」


「シライシ? それは石の呼び名でございますか? 長い間お逢いしていなかったため、私の顔をお忘れとは。私はスポロンでございますよ。歳を取りましたが、いまでもトーマス王太子殿下の執事でございます。本来ならば使用人宿舎の住人を王宮に通すわけにはいきませんが、ルリアンさんは特別に許可いたします。トーマス王太子殿下も長きに渡る留学先よりお戻りになられたばかり、積もるお話もおありでしょう。しかし、まだ交際されていたとはこの私も存じ上げませんでした」


「……ですよねえ。無断で入ってすみません」


「もうご帰宅ですか?」


「あっ、いえ……」


 トーマス王太子殿下に赤い薔薇が描かれた万年筆のことを聞きたくて、もう一度部屋に戻ろうとスポロンに背を向けた時、背後から女性に声をかけられた。


 ルリアンになりきるしかないと覚悟した亜子は思わず首を竦める。


「どなたかしら? スポロン」


「こ、これは……」


 スポロンが突然の来客に絶句した。


「新しいメイドなら、ドアをノックしなさい」


「いえ、私は……あの……」


 振り向くと、白いドレスを着た美しい女性がいた。凛とした眼差しと冷たい口調、マリリン王妃ではなくダリア・ピンクダイヤモンド公爵令嬢だった。


「ダリア様、彼女はトーマス王太子殿下の新しい秘書でございます」


 (え? 私は秘書? スポロンはまた適当なことを。)


「トーマス王太子殿下の秘書でしたか。これは失礼しました。私はダリア・ピンクダイヤモンドです」


 (それは名乗らなくても、わかってますってば。乙女ゲームで観たことあるし。とにかく今夜は退散するに限る。義父さんにこの異常事態を報告しなければ……。)


「トーマス王太子殿下はおやすみなようなので、私はこれで失礼します」


「お待ちなさい。あなたに見覚えがあるわ。確かあの時の……」


「いえ、人違いでは?」


「この私を騙せると思ってるの? 使用人のくせに、まだトーマス王太子殿下と続いていたのね。驚いたわ。国王陛下や王妃はご存知なのかしら?」


 ルリアンは返答に困り言葉に詰まる。

 真実を知りたいのは、ルリアンの方だからだ。


「あなたが秘書になったということは、トーマス王太子殿下が許可されたということね」


「……はい」


「そう。でも、私はあなたに用はないわ。失礼」


 ダリアはルリアンの前を通り過ぎる。左手には大きなダイヤのリングが光る。


「トーマス王太子殿下が王位継承者にならないと拒んだところで、それは無理なこと。あのお方は王位継承者にならざるをえない運命なのよ。所詮あなたとは住む世界が違うの。逢瀬を重ねるのは自由だけれど、結婚は望まないことね」


「わかっています」


 (私はこの世界の人物ではない。私には昂幸がいるんだから。)


「ご安心なさい。私はトーマス王太子殿下とは結婚はしないわ。でもきっとトーマス王太子殿下はお妃に相応しい女性と結婚する。あなた以外のね」


 ダリアはそれだけ言い放つと、ルリアンの前から立ち去った。


「スポロンさん、私が秘書だなんて。そんな嘘を……」


「嘘ではありませんよ。トーマス王太子殿下が留学先から帰国され、私に命じられました。ルリアン・トルマリンを秘書に命ずると。青年王族となられ、ご公務も多忙になられるので、傍に秘書を置きたいそうです」


 (私がトーマス王太子殿下の秘書!? 行員ではなく? この世界では王太子殿下の秘書!? 秘書なんて経験もないし、大体、王太子殿下の秘書って何をすればいいのかさっぱりわからない。それよりも私は早く宿舎に戻り義父と話をしたい……。)


 ルリアン《亜子》はスポロンにお辞儀をすると、トーマス王太子殿下の部屋ではなく、足早に使用人専用のエレベーターに乗り込んだ。

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