◇◇◇ 


 ――瞼を閉じて抱き合う二人。


「愛してるよ」


 亜子の耳元で甘い声が囁く。それでいて愛しい唇は動きを止めることはない。


 花びらのような愛らしい唇に、優しいキスを落としながら、亜子の理性は次第に壊れていく。


 体が熱を放ち、亜子は自分が自分でわからなくなる。


「ルリアン、声を聞かせて」


 (声を出すのは恥ずかしい。乱れた自分を見せることも恥ずかしい。ん……? ま、待って……。今、何て言ったの? ルリアン? ルリアンって、昂幸の義母が原作者の乙女ゲームの登場人物じゃない。やだな、こんな時にジョークいる?)


 固く閉じていた口が開かれ、昂幸は舌を絡ませ亜子を翻弄する。


 亜子は思わず甘い吐息を漏らしそうになったと同時にうっすらと瞼を開けた。自分の体に触れている昂幸に声をかけた。


「やだ。昂幸たかゆきってオタクだったの? いくら私が乙女ゲームの使用人の娘に似ているからって、ルリアンてなに? 義父さんみたいなこと言わないで」


「タカユキ? ルリアン、タカユキって誰だよ? まさか、移民と浮気したのか!? 私という恋人がいながら、他の男と情を交わしたとは……。嘘だろう」


「移民? やだな。昂幸なんの冗談? 他の男と情を交わすなんてあり得ない」


 亜子はまじまじと昂幸の顔を見つめた。

 亜子を抱擁しているのは昂幸にそっくりだがバスローブは薄紫色のシルクだ。室内も昂幸の部屋ではない。まるで童話に出てくるような豪華絢爛で煌びやかな王宮の一室、しかもベッドはキングサイズ。


「ここは……どこ? あなたは昂幸じゃないの? あなたは……誰」


「ルリアン、いい加減にしないと怒るよ。さっき慣れないハイヒールで躓いて転けて気絶したから? 私はルリアンの恋人、トーマス王太子。この私を忘れたとは言わせないよ」


 トーマス王太子殿下は亜子のバスローブの紐をほどく。


「うわ、わ、わ、ま、待って下さい。あなたはトーマス王太子? こ、ここはまさか……」


「パープル王国の王宮、私の部屋だ。何度も泊まっているだろう。転けたショックで忘れたのか? それならば思い出させてやるよ」


 トーマス王太子殿下は亜子の唇を塞ぎ、ベッドに倒した。


 (甘いキス……。これは昂幸のジョークだよね? それとも夢の中……? きっと夢だ……。)


(夢でもいい……。

 あなたになら……。

 壊されてもいい……。


 もっと強く……。

 もっと深く……。

 わたしを……愛して。)


 ベッドのサイドテーブルの上に置かれていた赤い薔薇が描かれた万年筆が、艶めかしいパープルの光を放った。


 亜子はハッとして閉じていた瞼を開く。

 靄がかかっていた頭が次第に晴れていった。


 隣には昂幸が眠っている。

 いや、正確には昂幸そっくりだが彼は昂幸ではない。


 亜子は必死で記憶を辿った。


 (ま、ま、待って。私は昨夜昂幸のマンションに泊まり、銀座でデートして、さっき義父さんのタクシーに乗って三田家の社宅に帰る途中だった。でもEV車が故障して、自動操縦が暴走して、ガードレールに激突したんだ。

 えっ? わ、私は死んだの!? 私は死んだんだ! ここはあの世……? 私を抱いたのは昂幸じゃない。彼は、彼は……乙女ゲームのトーマス王太子殿下!? 走馬灯にしては……随分オタクっぽい。)


 亜子はベッドのサイドテーブルの上に置かれていた赤い薔薇が描かれた万年筆に視線を向けた。


 ◇◇


 【回想・二千三十四年十月】


 偶然入ったカフェで、隣席に座っていた女性は昂幸の義母、三田美波であり、人気乙女ゲームの原作者だった。亜子と一緒にいたのは義父である木谷正と昂幸の実父、秋山修だった。


 木谷は美波が手にしていた赤い薔薇が描かれた美しい万年筆に視線を向けた。


『もしかして三田さんの奥様ですか? その万年筆、私の母のものによく似てます』


『そうですが。このような万年筆なら世界中で売ってますよ』


『いえ、母の万年筆はこの世には二本しかない特注品なのです。万年筆にMのイニシャルが入ってるんです。事故で亡くなった日に一本は洋服のポケットに入っていましたが、もう一本はバッグの中にもなくて。いつも予備として二本持ち歩いてましたから、バッグの中身が散乱した事故現場を探したけど発見されなかったんですよ』


『私は忙しいの。失礼します』


 美波は赤い薔薇が描かれた美しい万年筆をバッグに収めた。Mのイニシャルを隠しながら。


『待って下さい。母の万年筆を返して下さい』


『義父さん、恥ずかしいからやめて。あの模様の万年筆なら、乙女ゲームでも出てくるから、きっと量産されたのよ。ほら人気が出るとグッズにもなるから』


 亜子は義父の暴走を止め、乙女ゲームのストーリーをペラペラと話した。


『ゲームでは、現世で事故死した女性がゲームの世界に移民として転生し、ダイヤモンド公爵に見初められて玉の輿結婚するんだけど、黒髪を隠すために金髪に染めるのよ。その女性が赤い薔薇が描かれた美しい万年筆を持っていて、Mとイニシャルも入っていたわ。それはメトロのMよ。メトロ公爵夫人からメリー・サファイア公爵夫人へ、そして孫娘へと祖母の形見として引き継がれ、ゲームでは元王太子妃だったメイサ妃が持ってるのよ。みんなイニシャルはMなんだからね』


『元王太子妃だったメイサ妃の再婚相手はレイモンド・ブラックオパールだ!』


 義父が乙女ゲームだなんてキモすぎる。と、あの時、亜子は思った。


 もしも義父の母親が乙女ゲームの世界に転生し、メイサ妃の祖母であるダイヤモンド公爵夫人として生きたのなら、あのメイサ妃はゲームの世界で、義父の亡き母の孫娘。


 ◇◇


 ――トーマス王太子殿下のベッドの中。


「どうしてここにあの万年筆が……? いやいやあり得ないから。私、現世で死んで、義父の母のようにゲームの世界に転生したの?」


 亜子は冷静になろうとすればするほど、自分が混乱していくのがわかった。赤い薔薇が描かれた美しい万年筆に視線を向けると、その万年筆にはMのイニシャルが入っていた。

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