「なぁ、亜子。俺と同棲しない?」


 浴室のバスタブ、昂幸は背後から亜子を抱き締めた。発泡タイプの入浴剤はローズの香りがした。


「無理だよ」


「金銭的な問題なら心配ないよ。俺が全面的に責任を持つ」


「まだ新入行員なのに? 経済力ないでしょう。このマンションだって、三田様の所有しているマンションなんだから。それに私は、同棲はしたくないの」


「そうか」


 昂幸は亜子に『結婚しよう』とは、言ってくれない。その代わり口から出るのは『同棲しよう』だ。


 まだ二十三歳、就職したばかり。亜子もまだ二十四歳。結婚なんてまだ考えてはいないし、結婚なんて考えられないけど、離れていた期間もあり不安になる時がある。


 昂幸の父親は三田銀行取締役頭取、いずれ昂幸の祖父から、三田ホールディングス会長の座も後継するだろう。


 昂幸と三田様は血の繋がりはないが、三田一族に昂幸の出生の秘密は今も明かされてはいない。


 だから、秋山姓になっても、昂幸は三田家の後継者だ。自分は後継者にはならないと昂幸は断言するが、三田様は昂幸を今でも後継者にしたいと思っている。


 三田善幸の入行で昂幸が三田一族の後継者争いに巻き込まれそうで、亜子はかなり不安を感じていた。


 亜子の義父は個人タクシーの運転手だが、経済的にゆとりはなく、昂幸が留学中に母は再び三田家の調理場で働くことになり、公営住宅を出て無償の三田家の社宅に戻った。即ち亜子の両親と三田家のご両親は主従関係にある。


「どうして浮かない顔をしてる?」


「別に……」


「今夜は泊まって行くだろう?」


「うん」


 今が楽しければいい。

 今が幸せならばいい。


 いつもそう心に言い聞かせ、亜子は昂幸との甘い夜を過ごす。


 バスタブのお湯がパシャリと跳ね、昂幸が亜子に近付きキスをした。カメラのレンズが湯気でくもるように、私の瞳に移る昂幸の顔も白く霞む。


「のぼせちゃうよ」


「そろそろ上がろうか」


 昂幸に抱き上げられ、白いバスローブに身を包む。私達を迎えいれてくれるのは、純白のシルクのシーツ。


 亜子のハジメテは昂幸で、亜子の体は昂幸しか知らない。


 でも自分を見失うほど、亜子は昂幸に溺れてしまっている。


 銀行では『男嫌い』と噂されている亜子。昂幸の前で淫らな姿を見せたくなくて、理性を保つ振りをするが、次第に息づかいは荒くなる。


 目の前にある昂幸の眼差し。その眼差しが霞み意識が遠退いていく。


 初めて、昂幸の腕の中で意識を手放した。


 ――「あーこ、亜子」


 口移しで飲まされたミネラルウォーター。数分後、亜子は意識を取り戻す。


「……や、やだ、私……」


「驚かすなよ、死んだかと思った」


 昂幸は笑いながら、口にミネラルウォーターを含み、亜子に飲ませた。ゴクンの喉を鳴らすと昂幸は微笑む。


「ごめんなさい……私」


「謝らなくていいよ。亜子、ゆっくりおやすみ」


「おやすみなさい……」


 (バカだな、亜子。何やってるの。

 恥ずかしいよ。)


 昂幸にギュッと抱き着き、瞼を閉じる。


 昂幸の寝息を聞きながら、亜子も眠りに落ちた。


 ◇


 翌朝、昂幸より早く起き朝食を用意する。

昂幸は上半身裸のままキッチンに姿を現した。


「昂幸、おはよう」


「亜子おはよう。いい匂い。腹減った」


「そういうと思った。朝からステーキペロリと食べちゃうくらいだからね。でも、今朝はトーストとオムレツとサラダとフルーツ。軽いものにしたから」


「亜子のオムレツは大好物だよ。フワフワでとろける甘さ。昨夜の亜子みたいだな」


 (昨日、気絶したことを言ってるの? 意地悪だな。)


「やだな、もう言わないで」


「俺さ、今日三田の家に行くんだ。だから亜子を社宅まで送って行くよ。亜子久しぶりに三田家に遊びに来ないか? お父様に正式に紹介したい」


「正式に? 無理無理、私は三田家の使用人の娘。それに今は三田銀行の行員。取締役頭取のお宅にお邪魔するなんて、行員の私には出来ないわ」


「気にする必要はない。俺は新入行員だ」


「昂幸は三田様の子息だもの。血の繋がりはなくても、親子に代わりはない」


「だからこそ、亜子を紹介したいんだ。社内恋愛禁止の三田銀行で、俺が行員と付き合っていると他人から聞くより、自己申告した方がいいだろう」


「昂幸と私が交際しているからって、特別扱いなんて出来ないよ。私達親子が社宅から追い出され、私は地方に飛ばされちゃうわ」


 まだ学生気分の抜けないお気楽な昂幸に、亜子は釘をさす。

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