「はい。時短ペスカトーレの出来上がり」


 亜子はその間にルッコラとベーコンのサラダと、ホタテとアスパラの炒め物を作った。昂幸はその間も亜子を背後から抱きしめている。


「美味そう、腹ペコ」


 料理をテーブルに並べ、二人で「「いただきます」」と、両手を合わせた。


「研修どうだった?」


「厳しかったよ。でも身が引き締まった」


「来週から出勤だよ。大丈夫?」


「大丈夫だよ。本店だから、亜子がいるしね」


「私とは係が違うでしょう。それに三田銀行は社内恋愛禁止だから。くれぐれも気をつけてね。私、地方に左遷なんて嫌だからね」


「社内恋愛禁止なんて、誰が決めたんだよ。それは社内規則を改革する必要があるな」


「昂幸のやりたいことは、そこなの?」


「それじゃだめ?」


 亜子は半ば呆れながら、フォークにくるくるとパスタを巻き付ける。


「堅苦しい銀行で、アメリカで青春時代を過ごした昂幸が本当に働けるのか心配だよ」


「亜子はまるで俺の上司みたいだな」


「……そんなつもりはないけど。昂幸が取締役頭取と親子関係にあるなんて誰も知らないし」


「だからいいんだろう。それは公表する必要はない」


「三田善幸さんも本店勤務だし。昂幸とはどういう間柄になるの?」


「善幸は御祖父様の弟である正信まさのぶ叔父様の長男だよ。簡単に言えば俺の再従弟はとこ、三兄弟なんだ」


「そうなんだ。次期頭取候補だって噂だよ」


 昂幸はよほどお腹が空いていたのか、あっという間に、パスタを完食した。


「まだ勤務もしていないのに、もうそんな噂があるのか」


「うん。善幸さんって昂幸のことを知ってるの?」


「善幸はずっとイギリスに住んでいたし、俺もお父様と母が離婚したあとは母と暮らしていた時期もあったし、全然逢ってないし、俺の顔は覚えてないよ。俺は今、名字も秋山だし、研修でも善幸とは違うグループだったから気付いてないよ。だからあえて自分から素性は明かしていない。お父様は善幸の父親をあまり快く思ってはいないみたいなんだ」


「そうなの?」


「執事の山村の話では、御祖父様と正信叔父様は犬猿の仲と言われている。旧財閥が衰退している今、一族が結束して企業グループを守らなければいけないのに、金と私欲に溺れているらしい。三田証券だけではなく、三田銀行、旧三田財閥の流れを汲む企業グループを全て思うがままに支配しようと画策しているし、他にも悪い噂がある」


「三田ホールディングスを全部を我が手に? セレブにも色々あるのね」


「今夜亜子にこんな話をするつもりはなかった。俺には直接関係はないけどね」


「……そうかなあ」


「俺は三田銀行でお父様の仕事に従事出来ればいい。俺は三田家の血は引いていないんだから、亜子と同じ一行員に過ぎないからね」


「私を入行させたのは昂幸でしょう?」


「一行員にそんな力はないよ」


「名字が違っても、昂幸は三田様のご子息なんだよ」


 昂幸は亜子のグラスにワインを注ぐ。


「俺は秋山昂幸だ。心配しなくてもいいよ。今夜は久しぶりに逢えたんだ。楽しもう」


「……うん」


 セレブな三田一族の存続をも揺るがす魔物が潜んでいると知り、亜子は正直驚いている。庶民には予測も出来ないような悩みだ。


 昂幸はすでに三田家の後継者争いに巻き込まれているのに、本人はそれに気付いてはいない。


 食事を終えた亜子は、キッチンで食器を洗う。


「食器洗浄機を使えばいいのに」


「手で洗わないと、洗った気がしないの」


 昂幸は亜子の背後から、泡だらけの手を握る。亜子の手を操り食器を一緒に洗う。


 背後から首筋にチュッ、チュッ、とキスを繰り返し亜子を弄ぶ。


「やだ、悪戯しないで」


「亜子が焦らすからだよ」


 泡だらけの手で亜子の髪に触れ、髪を払いのけ耳の後ろに唇を這わせた。


「……手が泡だらけだよ。やだ」


「どうせシャワー浴びるから、関係ないよ」


「まだ食器洗ってるの」


「そんなの、食洗機の仕事だよ。あとは食洗機に任せよう。亜子より優秀だよ」


「ひどい」


 昂幸は亜子を軽々と抱き上げた。


「きゃあっ、意地悪ばかりすると、蟹みたいに泡だらけにするからね」


 亜子は泡のついた手で昂幸の顔に触れた。


 上から落ちてくる唇……。

 体の芯から痺れてくる。


「……いじわるな蟹さん」


 昂幸の首の後ろに手を回し、昂幸にギュッと抱き着き、わざと顔を泡だらけにする。


 昂幸は笑いながら亜子を抱き上げたたまま、浴室へと向かう。


 まだ少年だった昂幸の顔が、亜子の脳裏を過る。


 昂幸は今も亜子の王子様。

 亜子は昂幸に恋をする、陸に上がった人魚だ。

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