そうして、九重ひまりは願いを持った

 ──おねえちゃんはもう、しかたないなぁ


 九重ひまりは「あちゃ」と思いながらにそう思う。

 姉はいま、プンスカと怒りをあらわにして病室の中央に仁王立ちしているが、その姿を見ていると、どうにもじれったい気持ちを覚えるのだ。


「ひまり、大丈夫?」

「ん……だいじょうぶ。けど、ひまりはげんきだよ?」

「佐和くんはちょっと軽薄けいはくなところがあるから。変なことを言われても、ひまりは気にしなくていいんだからね?」


 その言い草にびっくりする。

 どうやら姉は、先ほどの会話を聞いて、彼が一方的にひまりを口説くどいていると捉えたらしい。そのあまりの視野狭窄しやきょうさくぶりに「うわぁ」と思ってしまうが、普段の彼女がどれだけひまりを溺愛できあいしているかを考えたら、不思議なことでもなかった。

 姉がベット脇の椅子いすへと座る。

 不満足そうな顔だ。

 そして、もう我慢できないと言わんばかりに、話を始めた。


「佐和くんはね、本当にどうにかしてやろうかと思うほど、お気軽人間なの」

「うんっ」

「やることなすことが無茶苦茶で……おねえちゃんが合コンとかいう場所に連れて行かれた時だってね──」


 姉は気づいているのだろうか。

 自分がいま、ずっと彼のことばかり話していることを。


 ──きっとぜんぜんきづいてないんだろうなぁ。


 ひまりの姉は、まるで漫画にでてくる登場人物のように鈍感な人間だった。

 自身の感情というものをてんで理解できておらず、だからこそ急に芽生えた情動に振り回されて戸惑っている。そんなキャラクターというのが少女漫画の中にも見れることがある。

 それはまさに、いまの姉の姿そのものだった。

 そう思うとつい、可笑おかしいという感情が堪えきれなくなる。


「──ひまり?」

「うん?」

「どうして笑っているの?」

「だって、うれしいだもん」


 そう、ひまりは嬉しかった。

 姉の新たな一面を知れることは珍しかったから。

 思えば、姉はあまり自分のことについて話したがる人間ではなかった。ひまりと二人でいるときでだって、ずっとひまりを気遣うばかりで、自身の願望を表すことをしない人だった。

 だから── 


 もしかしたら、おねえちゃんは日々を楽しく生きていないのかもしれない。

 だとしたら、ひまりこそがおねえちゃんに悲しい想いをさせるお邪魔虫なのかもしれない。

 

 ──そんなことを考えてしまったことさえある。

 それが、最近になってようやく思い過ごしだったことを知った。

 姉はいま、彼という人間を介して、日々の生活を楽しげにひまりに伝えてくれる。

 今日はこんなことをして愉快ゆかいだった。明日はあんなことをするからきっと大変だろう。

 そんなふうに、きちんと自身の人生へと目を向けてくれている。

 そのことがとても嬉しかった。


「おねえちゃん」

「ん、なにかしら?」


 姉が優しげに微笑わらう。

 ひまりはその笑顔も大好きだった。

 けど今は、もっと違う顔だって見せてほしいと思える。


「あんまりのんびりしていると、ひまりがダイスケさんをとっちゃうよ」

「ひまり……あなた、本当にどこでそんな言葉を覚えてくるの?」

「ひまりしってるもん。こーゆーのを『リャクダツアイ』っていうんだよ」


 姉はもうちょっと自らをかえりみたほうがいい。そう思って不敵な表情をつくって言ったつもりだったが、どうにも伝わらなかったようだ。姉は「母さんにあんまり過激かげきな本は読ませないように言っとかなきゃ」と苦言をていしている。

 ひまりはそれに「ぶう」と不満の声をあげた。

 だから「イジワルかな?」と思うものの、これも姉のためだと思い直して口を開く。


「ダイスケさん、いってくれたもん、『ひまりちゃんはもっともっと楽しい思いをするべきだ』って。だからひまりといっしょに、いっぱいデートするんだ」


 どうだまいったかと言わんばかりに当てつける。

 内心ではドキドキが抑えつけられなかったが、なんとか言い切ることができた。

 ひまりにとって恋人たちが過ごす蜜月みつげつというのは、すなわちデートのことである。カップルが連れ立って遊びまわることこそを、恋愛の果ての形だと信じていた。

 しかし、それをいくら強調して述べたところで、姉は困ったように微苦笑するばかり。

 どうにもひまりが想像する反応ではない。


「ぶう」


 だからひまりは、さらに追い打ちをかけるべく言葉を続ける。


「ダイスケさんといっしょにイチゴもたべるし、あとはユウエンチにも──あっ」

「どうしたの?」


 ところが、話をしているうちに別のこと思いついてしまった。そして、その考えを姉に話さずに我慢することは、できそうにないことを悟る。なので話を途中できりあげて、ひまりはベット脇のサイドテーブルへと手を伸ばした。

 取り出したのは一冊の雑誌である。


「これは?」

「おかあさんにかってもらったの。ユウエンチの本っ」


 それは日本でも屈指くっしの規模を誇る、有名なテーマパークのガイドブック。

 ひまりは、彼から遊園地の誘いを受けてからというもの、昼夜を問わずにこれを読みふけり、期待に胸を膨らませ続けていた。あまりにも所構わずに耽読たんどくしていたために担当の看護師さんに「読みすぎよ、早く寝なさい」とたしなめられたほどだ。

 そして、夢中になってページをめくるものだから型がついてヨレヨレになってしまっているその本を、ベットの上に大きく開いて、姉に読み聞かせる。


「ここっ! ここに行ってみたいっ」

「ふむふむ……」


 興奮気味に語りだすと、姉がしっかりと聞いてくれる。

 しばらくはそのように、なんでもない時間を過ごした。


 マスコットキャラに会ってみたい。

 このアトラクションに乗ってみたい。

 パンケーキを食べてみたい。

 園内限定グッズを手に入れたい。


 ひまりはワクワクするような空想を止めることができなかった。

 期待はすでに確かな願望になってしまい、口調は段々と華やかに、そして賑やかになってしまう。

 そうして、ひまりの願望は遊園地の枠を超えて拡がっていく。


 動物園にも行ってみたい。

 ペットを飼ってみたい。

 一緒に散歩をしてみたい。

 公園を思いきり走り回ってみたい。

 鬼ごっこをしてみたい。

 誰かと一緒に遊んでみたい。

 友達だっていっぱいつくりたい。


 とりとめのない夢たちが際限なく湧いてくる。

 子供であれば当然にするであろう、夢語り。

 これまで簡単にできなかった自分こそが信じられなくて、びっくりする。


 ひまりは、ワクワクドキドキする胸の鼓動こどうを抑えきれずに、姉に話しかけた。


「ねえ、おねえちゃん」

「なあに?」


 姉は相変わらず優しい笑顔でひまりを見ている。


「ひまり、ちょっと『ワガママ』をいってもいーい?」

「もちろん。なんでも言ってちょうだい」


 姉が頷いて、ひまりが言う。


「ひまりね。たのしいことを、これからいっぱいいっぱいしたい」


 すると姉は驚いたように目を丸くする。

 だが、やがて嬉しそうに目を細めると「ひまりは欲張りなのね」と言った。

 だから「うんっ!」と思いきりよく頷いた。


 ひまりにとって、これからの日々というのは、きっと楽しくて、そして愉快なものになるに違いない。


 ふと上空に、ゴオォという轟音ごうおんが聞こえて窓を見る。

 そこには青い空を二つに分けるようにして進んでいく飛行機の姿があった。

 ひまりはそれを指して叫んだ。


「ぎんいろどりっ!」


 とても元気のいい少女の声が、初夏の空へと響き渡った。

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