サービスマン、逃走する

 今日は気持ちのいい青空だ。

 気候もすでに春とは言えず、初夏の候といった挨拶あいさつが必要になる時期だろう。歩き回ればしっかりと汗ばんでしまうし、もしかしたら、本格的に梅雨つゆへと入る前の貴重な晴天なのかもしれない。

 そんな快晴の空を背景にしながら、その少女は以前と同じように窓の外を眺めている。


「ひまり?」

「おねえちゃん!」


 病室へと踏み入ると、元気よく楽しそうな子供の声がした。


「何を見ていたの?」

「なんにもっ」


 九重ひまりちゃん。

 かつて凶悪な『呪い』によってその身を侵され、死のふちひんしていた少女がそこにいた。彼女は大好きな姉の姿を見つけると華やかな笑顔を見せる。「あのクモはウサギさんににているね」

 その笑顔は、一片いっぺんの憂いさえ感じさせない、満開のひまわりのように生気あふれるものであった。


 ●


 ──あの日。

 ひまりちゃんの生命がもう駄目かと危ぶまれたとき。

 大輔の手によって、彼女の身をむしばんでいた『呪い』が無害化された。すると、たちまちに彼女の容体ようだいが安定する。それはまるで魔法のようでもあり、世界のことわりが一瞬で書き直されたかに見えた。


 そうしてひまりちゃんは一命を取りとめたのである。


 あの瞬間の九重さんとご両親の喜びようといったら、とてもではないが、言い表すことが難しい。感極まっている彼女ら様子を見て、大輔もふんばった甲斐があったと思ったものだ。

 それからひまりちゃんの身体は、みるみると回復の兆しを見せ始めている。今ではもう、退院も視野に入れた治療が行われているくらいだ。

 しかし、その代償と言うべきか、一つの結果として。

 ひまりちゃんには大輔からの求愛を受けなければならないという、奇怪きっかいな制約だけが残されていた。その制約が破られることがあれば、彼女の病が再発する危険性がある。

 けれど、それもまた今では解決している事項である。

 ひまりちゃんの『呪い』はすでに、遅れて到着した某国の神秘材によって根本から解呪されていた。であるならば、彼女が大輔にみさおを立てる必要もなくなり、それに伴って大輔のプロポーズもまた反故ほごとなっている。

 よって、現在のひまりちゃんは至って綺麗な身の上だ。

 便宜上べんぎじょう、一週間ほど名ばかりの「お嫁さん」になりはしたものの、大輔のい人になったという事実はない。それはオママゴトのようにして終わった話だ。

 

 こうして全ては『めでたしめでたし』と相成った次第である。


 ●


「おお本当だ。あれだけハッキリと耳があれば確かに兎だな」

「あっ──」


 そんなふうに元気になったはずのひまりちゃんであったが、大輔の姿に気づくと、急にモジモジと恥ずかしげな様子を見せた。

 大輔は「おや?」と気がかりに思うも、問いかけるにまでは至らない。そのまま九重さんへと「日本でも有名なあの兎のキャラクター、ずっとカメラ目線のやつ。母国では全然違う名前らしいよ」「はあ、そうなんですか」と他愛ない会話を振っていた。

 すると、ひまりちゃんが顔を上げて、勢いこむように話しかけてくる。


「こんにちはっ! ダイスケさんもきてくれたんですねっ」

「うん……う〜ん?」


 快活な挨拶に微笑ましい気持ちを感じつつ、なにか無視できない違和感を覚える。しかしまだ状況を断定するには早いと、疑念を抑えつつ大輔は前に出た。


「こんにちは。ひまりちゃん。お見舞いにきたよ、元気にしてたかい?」

「はいっ、これもダイスケさんのおかげです」


 またである。

 偶然かもしれないと聞き流していたが、二回も続けば看過かんかすることができない。けれど、それを言及しようとなると、なんだか嫌な予感がした。さりとて、いつまでも無視はできないだろうと大輔は、ひまりちゃんへとそれを尋ねる決意をする。


「あの、ひまりちゃん?」

「なんですか?」

「その……『ダイスケさん』とは、いったい?」

「えっ──っと」


 問われたひまりちゃんは、はにかんでいた。

 とても可愛らしい……可愛らしいのだが、大輔の胸騒ぎがピークに達する。なんだか虎の尾を踏む直前のような、不気味な緊迫感を感じていた。

 やはり彼女に口を開かせてはいけない。

 咄嗟とっさにそう思い直して、制止しようとする。しかし、それよりも前に彼女は「よしっ」と小粋こいきな意気込みを見せて、それを口にした。


「ダイスケさんとひまりは『コンヤクシャ』だから、それぐらいフツウだよっ」


 その笑顔は純真無垢じゅんしんむく権化ごんげのようであった。

 まるで天使のようにも思える可憐さであり、思わずほだされそうにもなる。しかし、それはできるはずもない。なぜなら、大輔の背後に無視できない気配を感じたからである。


「佐和くん?」


 ゾクリとする。

 まるで鈴を転がしたかのような、美しく澄んだ声が聞こえてきた。そのりんとした声音にたぶらかされて、つい振り向いてしまいそうになるが、必死になって堪えた。

 外面似菩薩内心如夜叉げめんじぼさつないしんにょやしゃという言葉がある。

 それは、どんなに柔和にゅうわで美しく見える菩薩ぼさつ様でも、その内心は夜叉やしゃのように残忍で恐ろしいという例えだ。


 ──つまりいま、俺の後ろにいるのは夜叉なのだ。


 絶対に振り向いてはいけない。

 背後に危険を感じた時にするべきなのは、ただひたすらに逃げ去ることであり、後ろの脅威を確認することではない。好奇心に身を駆られた瞬間に、大輔は終わる。

 そのように確信した。

 であるならば、迷わずに前方へと走り出すのが道理である。


「えっとね……ひまりちゃん?」


 やんわりと優しい声をかけて、ひまりちゃんへと言って聞かせる。

 大輔がひまりちゃんへとプロポーズをしたのは、必要にかられてのことであり、非常時の緊急措置きんきゅうそち的な行為であったこと。よって、あの時の大輔の言葉を真面目まじめに捉える必要はなく、君は君の好きな人との将来を誓い合っていいのだと、つとめて誠実に説明した。

 そして、この説得であれば、後ろの夜叉姫も納得してくれるだろうという手応えを感じて、大輔は自らの保身が果たされたと安堵あんどする。


「ひまりとのことはアソビだったの?」


 君はわざとやっていないか?


「いったいどこからそんな言葉を……?」

「おかあさんの本にもかいてあったよ。男の人が女の子にウソをついていじめるの」

「そうだった」


 ひまりちゃんの愛読書は少女漫画であった。

 そこには男女間における不道徳が当たり前のように描写されているのだろう。まったくもって、健全な青少年育成にそぐわない書物である。思わず有害図書指定にして焚書ふんしょしてやりたい気持ちになったが、今は現実逃避をしている場合ではない。早急に事態をおさめる必要がある。


「もちろん、遊びだなんて、そんなことはないよ。ひまりちゃんはとても可愛い女の子だから、真剣に将来を考えることもやぶさかではな──」


 大輔がそこまで口にすると、ポンと後ろから、肩に手を置かれる。

 ひんやりとした掌の感覚が恐ろしい。

 これはマズい。


「──いんだけれど、ひまりちゃんはいい子だけど。ほらさ、なんというかさ、あー……そう! 俺たちは年が離れすぎているからっ」


 大輔だって死にたくはない。

 だから慌てて台詞せりふ軌道修正きどうしゅうせいすると、ひまりちゃんは答えが不服だったのか、ほほを膨らませて尋ねてきた。


「そしたら、ひまりがステキな大人になったらモンダイない?」


 ひまりはもう大人になれるもん、と。

 鼻息を荒くして意気込んでいるひまりちゃんに、否定の意見を述べるのは難しかった。せっかく未来への希望に満ち満ちている彼女に、そんなのは夢見がちな妄想だと、水をさすことはどうにもはばかられる。

 よって大輔は折れた。


「あー……うん。問題無いです。ひまりちゃんが将来、素敵な大人になったらね」


 結局、大輔にできる精一杯は、曖昧あいまいな言葉を返して物事をウヤムヤにすることだけである。

 するとひまりちゃんは「やった!」と喜びを隠そうともせずに両手を上げる。その次にはルンルンと楽しそうに鼻歌まで口ずさんでいる始末だ。大輔としては、自分との交際に何がそんなに嬉しいことがあるのか、理解できずに苦笑する。

 それでもまあ、幼い少女の夢は守れたかなと、ほこらしい気持ちであった。


「──だからあとは、この窮地きゅうちをどのように脱するかだけなんだけど」


 現在、大輔の肩には、万力まんりきにかけられているかのようなキツイ締め付けがある。きっともうすぐ左肩はペシャンコになるはずであり、ミシミシときしむ骨の音が生々しい。


「さ〜わ〜くん?」


 そして耳に聞こえるのは、世にまたと無いような美声である。

 甘美な響きに脳髄のうずいまでとろけてしまいそうだ。


 進退ここにきわまれり。


 嗚呼ああ、これはいったいどうしたものか。考えるまでもない。

 三十六計逃げるにかず。

 この場においては尻尾を巻いて逃げ出して、のちの再挙さいきょを図ることが何よりも上策だろうと、大輔は決断する。


「おっとそういえば、急に腹が痛い気がするから、俺はいったんはばかりに失礼する」

「はば……?」


 そう言って隙をつき、身体をやや乱暴に回転させる。

 すると目論見もくろみ通りに九重さんの手が外れたので、そのまま一目散に逃げ出した。


「待ちなさいっ、佐和くんっ‼︎」


 病室を出て、廊下を駆け抜けていくと洒落にならない怒声が聞こえてきた。

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