九重結菜、回想する①

 九重結菜が初めて妹と対面したのは、歳のころが十のとき。

 古い話だが、さすがにそれぐらいの年齢になれば物心がついていないこともなく、初めて彼女が家にやってきたときのことは、しっかりと記憶に残っていた。

 当時、おくるみを大事そうに抱えて母は言った。


「結菜はこれからお姉ちゃんなんだからね?」


 母の傍らに立ち、妹をあやしながら父も言った。


「お姉ちゃんは妹を大事にするんだよ?」


 そんなこと言われても……よくわからなかった。 

 これまで生きてきた十年間において、自分よりも大事な存在がいる時間なんて一秒たりともなかったから。これまでは家族の中心にはいつも自分がいて、誰もが結菜のことを特別扱いしてくれていた。しかしこれからは妹こそが特別となり、自分は彼女を導くための『姉』になるのだとさとされた。姉とは妹の手本になるべき存在なのだ、と。

 頭では理解していた。さすがにそんな分からず屋でもない。ワガママも言わず「うん、分かった」と、両親が望む返答をすんなりしたと思う。けれど、気持ちの上で納得できていたかは自信がない。

 実感なんてなかった。

 ただ自分の代わりにチヤホヤとされる妹の存在を不思議に思うばかりで、どこか他人事のように、家族の団欒だんらんを見ていた。父と母と妹は、絵に描いたような幸せの中にいると思った。まるで遠い外国のホームドラマを見ているかのような感覚で、自分以外の家族を俯瞰ふかんする。そんな感覚は結構に長い間、結菜を縛りつけた。

 それがはっきりと変わったのは、いつのときだっただろうか。

 考えると、答えはすぐに出てくる。

 きっとあのときだった。


 それは特別でもなんでもない、ただの平日であったと思う。

 小学校から帰宅するなり結菜は、母に仕事を申しつけられた。妹のオシメを代えろというのだ。その時はたしか、文句も言わずに仕事にとりかかったはずだが、きっと不満タラタラだった。それよりも早く友達と遊びに出かけたいと、そんなことを考えていたように思う。

 その頃の妹はまだ言葉を話すことはできずに「あー」とか「うー」とか意味のない発声をしていた。それが赤子というものであるが、当時の結菜にとってはなんだか不気味にも思えたのだ。


「ほら、ふいてあげるから足をあげて」


 だから、妹に話しかけたことに理由なんてない。

 返答なんか期待していなかったし、いっそ独り言のつもりだった。

 しかし、その言葉に反応があった。


「お……ねえ、たゃん」


 最初はなんと言われたのかわからなかった。

 呆然としていると彼女はまたも口を開く。

 そして今度ははっきりと聞こえた。


「お、ねえちゃん」

「な、なあ……に?」


 おっかなびっくりという言葉はきっとああいう感情のことを指すのだろう。そんな風に恐る恐ると尋ねると妹は、キャッキャとした笑みを浮かべる。

 そして言うのだ。


「おねえちゃん」

「お母さーんっ、しゃべったーっ!」


 結菜は慌てて母を呼んだ。

 駆けつけてきた母は嬉しそうに、けれど悔しそうに「やったわね」と言った。

 あの瞬間、まだ幼かった自分は何を思ったのだろう。

 ただ驚嘆しただけだったのだろうか、それとも歓喜の感情だろうか。

 妹が発した初めての言葉は、母でもなく父でもなくアンパンマンでもなかった。他ならぬ自分を呼んだのである。我がことながらに単純なもので、結菜はその事実だけで、それまでに抱えていたわだかまりのような感情を完全に霧散むさんさせてしまった。妹に『姉』と呼ばれた。ただそれだけの経験で、ようやく自覚したのだ。


 そのとき初めて、結菜は妹の──ひまりの『おねえちゃん』になった。

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