第八話 右腕の在り処Ⅲ
ふたりが訪れたのは、中心に経てばその全貌が簡単に見渡せるほど小さな島だった。周囲は目に痛いほど鮮やかな青い海に覆われ、かつては陸地だった岩山の先端が、水面のあちこちから突き出している。
文明の名残を波打ち際に運んではさらっていく波を避けながら、ルーシェヴィカは軽やかに浜辺を進む。
『やはり、この感覚は良いな』
肌に当たる湿気た風、砂のざらついた感触、空から降り注ぐ熱い光。五感を刺激するそれらを、彼は上機嫌で享受する。
その背中に異様な冷気と整然とした音を感じて振り返ると、ジマイヴィルが身体を縮め、ぶるぶると震えていた。
『本当に
『……悪いかよ』
『それを含めて貴様自身だ、生まれついての特性に、良いも悪いもあるまい。お、見ろ、貝殻だぞ』
生憎、この身体は発声器官が発達していない。先程と同じようにテレパシーでやりとりしながら、彼らは波打ち際を歩く。
「────っ!」
この島に残された数少ない在来種だろうか、やせ衰えた四足歩行の生物が歯を剥き出しにした。しかしその身体は、ルーシェヴィカに襲いかかろうとした途端、細胞をひとつ残らず凍りつかせて砂浜に倒れた。
『ご苦労、気が利くな』
『別に』
そしてもう一体がジマイヴィルを襲い、同じ末路を辿った。
『……俺を連れ歩くってのはこういうことだ。近付くやつは、皆死ぬ。だから群れにはいられない』
『それでよく今まで追放されずに済んだな』
『……開拓地で火事だの酷暑だのがあると、駆り出されるんだ。俺が近付けば火なんてあっという間に消える』
ジマイヴィルは諦観の念を宿した視線を、満ちる海に向けた。
『俺は群れの一員じゃないけど、群れには必要な道具だった。でも、少し前に何人かを巻き込んで凍らせちまったせいで、皆考えを変えたんだ』
『制御不可能なものを利用しようとした愚か者どもには、お似合いの結果だな』
ざざぁん、ざざぁん、音を立てて波が足元に打ち寄せる。凍てつく空気を背中に受けて冷え切ったルーシェヴィカには、それが生温く感じた。
『……アンタも、俺を便利に使おうって思ってるんだろ?』
『使う?馬鹿を言え。私は物言わぬ道具を部下にする趣味はない』
足が小さな破片を踏みつけて、痛みを産む。痛い、寒い、冷たい、その全て、生きているからこそ感じるものだ。
『先遣隊に任命されたことは、私にとっては僥倖だった。あらゆる土地を渡り、時に危機に見舞われ、時に素晴らしい発見をする─その中で、常に新しい感覚が私の全身を満たすだろう。私は生きている、今までも!これからも!それは貴様も、他の部下たちも同じだ。私達は生き続ける!魂と肉体を持つ生き物として!』
興奮が身体に熱を宿す。喉を震わせない叫びはしかし、ジマイヴィルの脳の芯に痛いほどのエネルギーを以て届いた。
『……うるさ』
『よく言われる』
『自分で好き勝手に生きてれば良いだろ。俺は……そういうのはどうでも良い。隊に入ったって、氷像が増えるだけだ』
『では、その異能が完璧に制御できるとしたら、お前は何を望む?』
それはジマイヴィルにとっては、何の意味もない夢物語だった。
『答えろ、ジマイヴィル』
名を呼ばれる。細い瞳孔を持つ瞳が爛々と輝いている。これほど激しい感情を持つ者は、群れの中には少ない。
その視線から逃げるように目を逸らすと、一面に広がる海が見えた。
『……水、触るとか』
『なんだ、随分ささやかな願い事だな』
ルーシェヴィカは勝ち誇ったように笑って、その腕をジマイヴィルに差し出した。
『命令だ、ジマイヴィル。私の手を掴め』
『いや、氷漬けになるって』
『ならない。何故なら、私はお前たちの統率者だからだ』
全く答えになっていない。ジマイヴィルは顔をしかめ、しかし目の前の彼が一歩も引かないことを察すると、渋々腕を伸ばした。己の身体が凍りつくことの恐ろしさを知れば、この尊大な態度も豹変するだろう。そして自分は暗い牢獄に逆戻り─それで良かった。もう誰かに利用され、恐れられ、様々な負の感情を向けられる日々には疲れ切っていたからだ。
やがて、肌が触れる。その瞬間、ルーシェヴィカの細胞はみるみるうちに凍りつき、死滅する─ことはなかった。
地面から腹の底まで響く音が骨の芯を震わせる。これがルーシェヴィカの
『予行練習は終わりだな。ほらジマイヴィル、あれに触ってみろ』
混乱する中、ジマイヴィルは言われるがままに海へと近付き、恐る恐る鋭い爪を水面へと伸ばす。水は凍らなかった。初めて触るそれは想像よりも温かい。そして小さな水棲生物が指の隙間を泳ぎ去っていった。何とも形容しがたい、湿っぽく生温い感触に、彼はびくりと身を震わせる。
『……な、なんで?』
『おお、効いたか。お前は存外、私を敵視していないらしいな』
『は?』
『それどころか、口では諦観したように見せかけて、私と先遣隊に強く興味を引かれている。違うとは言わせないぞ、お前が水に触れられること、それが証明だ』
『何言ってんだ……あんた』
ムジカが発動しない。水栓を閉じられたように、冷気の放出は止んでいた。
困惑するジマイヴィルの傍らに座り、ルーシェヴィカはにんまりと笑う。
『言っただろう、群れは私の
『同じ……』
『他の者たちも同様だ。それぞれの理由で群れを追われ、先遣隊として、肉塊共が怠惰に生きるための土地を探すことを強いられた。だがそれも結構、星々無き宇宙の果てまで歩んでやろう』
先遣隊。その名の通り、土地を渡り歩く群れに先んじて居住に適した場所を探すため、当て所ない旅を続ける者たちだ。多くの者が流刑同然にその任務に従事させられ、そして闇の中に消えていった。
それを知りながら、彼の目には力強い光が宿ったまま、消えることがない。
『私には、それができる』
『……なんで、そんなに俺に拘る?』
『お前は私の命令に応えた。私は忠実な者を決して手放さない。行くぞ、ジマイヴィル』
『……待て』
『何だ?』
『あんた、そんなに強い力があるなら、別にひとりだって良いんじゃないか?先遣隊に選ばれるやつなんて、俺も他人のことは言えないけど、ロクなやつじゃない。居れば居るだけ苦労する……と思う』
『そうだろうな』
ルーシェヴィカは頷きながらも立ち上がり、浜辺を歩き始める。
『だが、ひとりではつまらないだろう?』
『……は?』
『生きる場所というものは、少し喧しいくらいが丁度良い。他のやつもなかなか面白いのが揃っているぞ。ランスィーニーというやつは、寸借詐欺の常習犯らしい』
『それ面白いか?』
テレパシーを交わしながら、ジマイヴィルは無意識のうちに前を歩く背中を追い始めた。
戻っても居場所はない。暗い牢獄に閉じ込められ、都合のよい時にだけ利用される日々に逆戻りだ。それよりは、この男に着いていく方が、マシな生き方に思えた。
『さあ、行くぞ。まずはレグルザを拾っていくか』
『誰だよ、レグルザって』
『私が知る中で最も慇懃無礼な男だ。話していると飽きないぞ』
『ろくな奴が居ねえ……』
迷いない言葉と足取りは、恒星の輝きに似ている。
湿気た風が毛並みを逆立たせ、ジマイヴィルは海を見つめた。すべての命が水底に消えようとしているこの地はしかし、どこまでも青く、鮮やかだ。美しいと思った。暖かいと感じた。そのどちらも今まで一度も味わったことのない感覚である。
『……俺、生きてるのか』
『ああ、そうだ。そして他ならないこの私が、これからもお前を生かし続けてやろう』
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