第五話 左に立つ者
安曇の謝罪と感謝を受け、「患者様がご無事で何よりですよ」とやんわり微笑む姿は明らかに年齢と不相応であったが、彼は若者らしい演技をする気はないようだった。
「本当にありがとうございます!あ、お茶飲みますか?」
「ではお言葉に甘えて」
「お前、少しは演じる努力をしろ」
待合室のソファ─左隣に座る御厨に、茉利はそう囁く。
「もう少し粗野に振る舞えと?それは命令ですか?」
「命令ならば聞くのか?」
「いえ、必要性を感じませんのでお断りいたします─あなたは随分と真面目に演技していらっしゃるようですね、“茉利くん“」
「お前は相変わらずだな。御厨の近親者の前ではもう少し取り繕うように」
「承知いたしました」
茉利が御厨について明確に覚えていることは、名前と断片的な会話だけだが、その頑固な振る舞いを懐かしいと思った。彼は自分の美意識に反することは、徹底的に拒絶する。昔からそうだ。
「ところで、まつりくんは随分可愛らしいお名前ですね」
「剣崎で良い」
茉利が最も不満に思っていることを、彼は楽しげにからかった。
「お前は本当に私を馬鹿にするのが好きだな」
「あなただけでは無いのでご安心を……ああ、何か落ち着かないと思ったら、“右腕”の彼がいらっしゃらないのですね」
「右腕?」
「いつも隣にいたでしょう。わたしも詳しくは覚えていませんが、身体が大きくて、神経質で、生真面目な……」
茉利は、ああと頷いた。それは、断片的な夢や記憶に幾度も現れた存在だった。
常にまつりの右側に立ち、後ろで騒ぐ者たちを厳しく統制して、よく茉利を挟んで御厨と会話していた─そんな人物だ。
「ならば、あれが私の副官か?」
「副官?」
「私たちはひとつの部隊として行動を共にしていたようだ。お前は私を“指導者”、或いは“統率者”、“隊長”と呼び、あれは騒がしい者たちに睨みをきかせていた……そうなると、お前の存在が考察のノイズになるがな」
“指導者”と呼ばわりながら慇懃無礼な態度で接し、そして超常的な力を行使する。彼の存在がどんな考察に対しても齟齬を産んでしまうのだ。
「私たちは秘密の超能力部隊で、無理な行軍を命じられた最中に戦死……この名前はコードネーム、お前は私の同期か何か、不遜な物言いが許される立場だった─お前の力に辻褄を合わせるなら、こんな説になってしまう」
「辻褄は合いませんよ。だってあなた、何の力も持っていないでしょう」
彼はからかうように笑い、くいくいと人差し指を動かしてみせる。
「見てください、ルーシェヴィカ。有効範囲は30mほどですね」
促され窓の外を見ると、遠くの屋根の瓦が一枚剥がれ、何かに引きずられるようにしてこちらに近付いていた。
微かな鈴の音のようなものが耳をくすぐるが、それは御厨の声で霧散する。
「力の強さも加減出来ますよ。今はごくごく軽い力で引いています」
「引き離したり、軌道を変えることは?」
「いいえ。直線軌道で引き寄せることしか出来ないようです」
任意の物質に御厨へと向く引力を発生させる力─ということだろうか。彼は楽しげに瓦を転がし、やがてそれは屋根を滑ってアスファルトへと転落した。
「おっと、間違えた」
「あまり派手なことをするな」
「これ、スリに使えますね。それに競艇や競輪の順位をある程度操作出来そうです。御厨蛍助は困窮しているので、バレない程度に利用させて頂きますよ」
「家庭教師は、随分と薄給なようだな」
「ああ、あれは嘘です。御厨は元々小学校の教員でしたが、昨年度に無断欠勤を繰り返した末に退職しているので」
「……それで家庭教師をしているのだろう?」
「いいえ?」
堂々と安曇たちに「家庭教師」だと名乗っていた御厨は、窓から目を離し何でもないような口調で続ける。
「どうやら、かなりの口下手であがり症だったようです。退職を切っ掛けに、教員である両親が住む実家には居辛くなり、祖母の援助を受け一人暮らしを始めたものの、ここ一月仕送りを食い潰す生活を送っていました」
「つまり?」
「俗に言うニートですね。大丈夫ですよ、親や祖父母のツテで契約を取れば、明日にでも本物の家庭教師になれます。わたし、人にものを教えるのも慣れているので……覚えていませんが、恐らくそうでした」
淡々とした早口を止め、御厨は探るように呟いた。
その横顔を見て、茉利はある仮説を立てる。能力をスリやイカサマに使おうと提案し、顔色ひとつ変えず嘘をつき、そして困難な状況にも焦ることなく対策を立てようとする─それは、茉利が声をかけた御厨蛍助の性格とは大きく違って見えた。記憶が蘇ったからといって、こうも性格が変わってしまうものだろうか。
─やはり、私たちの自我は、元の剣崎まつりや御厨蛍助のそれとは違うのか?
─そうであれば良いが……。
「そうだルーシェヴィカ、あなたの家でも雇って頂けませんか?あなた、11歳から学校に通っていないんでしょう」
「知識は充分に備わっている」
「しかし、お父様を欺き続けるなら、お馬鹿さんのふりをしなくてはいけませんよ。わたしを雇えば、少なくとも授業の最中は下手な演技をせずに済みます」
「それは……非常に魅力的だな」
今は行成のうろ覚えの知識で分数を教えられているところだが、その時間はかなりのストレスを感じさせる。それが無くなって、勉強のことを御厨が適当に誤魔化してくれるというのは有り難い話だった。
「では、私は全力でお前に懐いたふりをするから、お前も全力で行成にアピールしろ」
「気色悪いですね」
「黙れ。同じことを2度言わせる気か?お前は私の部下なんだろう」
高圧的に命じれば、御厨は肩をすくめた。
「はいはい、承知いたしました」
「あ、ごめんなさい遅くなって。お茶っ葉新しいの出してて……」
そこに、ティーカップを2つ持った志羽が戻ってくる。立ち上がってそれを受け取りながら、彼は茉利を振り返った。
「ありがとうございます、頂きますね」
そのまま3人で話していると、やがて診療所の表に行成の車が止まった。
茉利が迷子になりかけたことへの謝罪をするためか、再び安曇が診察室から姿を現す。志羽も慌てて彼に駆け寄っていった。
「あの先生、右隣の彼に似ていませんか?神経質なところとか」
「あれは、安曇の百倍は遊び心も面白みもあったぞ」
茉利は尖った声音で呟き、御厨の言葉を否定する。
「おや、先生はお嫌いですか?」
「一緒にいて面白い相手ではないな。勿論感謝はしているが─それより、気を引き締めろよ、私は自由に動ける立場ではない。お前が私のもとに来るんだ」
「嫌だ嫌だ、居丈高な上司は嫌われますよ」
そう言いながら、御厨は楽しげに微笑み、服の皺を伸ばして立ち上がる。親に挨拶をする準備は万端なようだ。
「継続して交流する機会を得ることができたら、まずは右隣の男を探すべきだな」
「探す?彼もわたしたちと同じ状況にあるのですか?」
「あれが私の部下ならば、それを取り戻さなければならない」
質問の答えになっていない茉利の言葉に、御厨は目を瞬かせる。
「なぜ?」
「お前たちが言ったんだ」
呼べば応えると。闇の中に彷徨い、息絶え、全てを忘れてしまったとしても、この声があれば進む道を見つけられると。
「私は、探すぞ。そうすれば見つかる」
“レグルザ”の名を呼び、彼に手を差し伸べたとき、茉利は形容しがたい感覚を覚えた。
高揚をかき集めて直接脳に注射したように刺激的でありながら、真綿のベッドのように柔らかい落ち着きをもたらす─歓喜、安堵、征服感。目が覚めて以降、何かが足りなかった。飢えていた。それが満たされつつあった。しかしまだ完全ではない。
「ひとつとして、残すことはない」
茉利は、否、“ルーシェヴィカ”は堂々と宣言した。
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