第四話 記憶する魂Ⅲ
盛大に転んだ茉利の視界には、空の青が広がる。打ち付けた膝はじんじんと痛み、鋭い陽光が肌と角膜を焼く。
─転んだ。
突然の事態にも関わらず、茉利は自分の身体がどうバランスを崩し、倒れ、どんな体勢で転がったかを正確に理解していた。とはいえ、理解しても未発達な筋肉でそれを止めることはできなかったのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
男は慌てて駆け寄って来た。突然絡んできた相手が勝手にひっくり返っただけだというのに、どうやら彼は随分な善人であるらしい。
「……これは病院のスリッパ?あの、どこかご気分が悪いんですか?」
癖の強いロングボブの茶髪を耳にかけながら、男は気遣わしげに尋ねた。
一重の目と細い鼻筋が特徴の顔立ちは端正で女性的だ。しかし骨張った痩身やその声音は男性である。観察する部位ごとに雰囲気が異なるせいで全体像を捉えにくい、掴みどころのない印象を受けた。
「そこにいるのか」
茉利はふらりと身を起こす。衝動と本能が彼を支配し、その身体を動かしていた。
「え、あの……“僕”何かしましたか?」
「貴様ではない!」
衝動的に放った大声に呼応するように、頭が激しく痛んだ。たたらを踏み、額を押さえ、歯を食いしばる。やはり男は慌てた様子でそんなまつりの肩に腕を伸ばした。
「やっ、やっぱり具合悪いんですよね?僕、診療所の人呼んできますから─ああ、あれどこにあるんだっけな……?」
肩に掌が触れる。刹那、降り注ぐ陽光が、否─それよりも眩い光が脳裏で弾けた。
星だ。星が爆ぜ、脳を満たす。内側から目を焼く眩しさの中でまつりは奇妙な光景を見た。それは枝葉を伸ばす一本の大樹。その根元で瞬いた光が、幹を伝い、枝の隙間を迷いながら上へ上へと進んでいく。しかし頂点に辿り着くことはない。光は、星は、行くべき道を知らなかった。
『名前を』
走り出した男の背を追う。あまり土地勘がないのだろう、見当違いな方角に向かったその背中を捉えようと腕を伸ばす。しかしたった半年で10年間を取り戻せるはずもなく、すぐに息があがり、肺が痛んだ。
─生きている。
場違いにそう思う。生きているから、苦しくて、痛い。当たり前のことであるはずなのに、茉利はそれを素晴らしいものだと感じた。早く「彼ら」にもこれを味合わせてやりたい。
─彼ら?
男は交差点に出て信号を渡ったところで、診療所の案内看板を見つけたらしい。くるりと踵を返す彼にようやく追いつけると気を抜いた茉利は気が付かなかった。自らが渡ろうとしている信号が「赤」であることに。
クラクションの音が耳をつんざく。大型トラックが視界の端に映る。その構図は、10年前茉利とその母が飲酒運転の車に跳ねられたときの記憶とよく似ていた。
「危ない……!」
男が叫ぶが、茉利の心に焦りはない。その顔は無意識に笑みを浮かべていた。
再び真っ直ぐに手を伸ばす。男の脳の奥に瞬く星に向けて。
「来い、“レグルザ”!」
声とは違う、腹の底に響く低音が脳を振動させる。男の目が零れ落ちんばかりに見開かれた。束の間ふらりとその上体が傾ぐ。しかしすかさず足を出して踏ん張ると、彼は腕を伸ばし、何かを掴むように拳を握る。
刹那、優しく穏やかな、しかし決して周囲の音に呑まれることのない明瞭な“音”が響く。
「来るのはあなただ、馬鹿!」
そして、その拳を胸の前に引いた。次の瞬間まつりが感じたのは浮遊感、鈴のような澄んだ音、トラックが巻き起こす風圧、そして─思い切り身体が引っ張られる感覚。気が付けば、彼は男の胸に飛び込むような形でぶつかり、揃って地面に倒れていた。
「おい、危ねえだろうが!」
トラックの運転手は、突然目の前から消えた歩行者に戸惑っていたが、やがて運転席から降り、茉利を怒鳴りつけてきた。
すると、男は立ち上がり、いつの間にか茉利が履いていたスリッパを片方手元に引き寄せて、それをくるりと回す。
「わざわざ降りてきてくださってありがとうございます、あなたは親切なお方ですね。今飛び出してきた彼が、このスリッパを履いていたのですが、どちらの病院のものかご存知ですか?彼にも質問したのですが、病気の症状でしょうか……上手く意思疎通ができなくて。きっとご家族や看護師の方が目を離した隙に飛び出してしまったのでしょうね。本当に怪我がなくて良かった。この方にも、勿論あなたにも」
本をパラパラと捲るように、淡々と、息をつく暇もない言葉に、運転手は圧倒されていた。しかしようやく状況を把握したのか、やがて頭をかきながら口を開く。
「あ、あぁ?それならこの交差点渡ったとこにあるやつだろ。ほらそこに看板あるじゃねえか」
「ああ、本当だ。お忙しい中足を止めてくださってありがとうございます。お互い災難でしたね」
下手に出て労い、褒め、共感する。男の柔和な語り口に敵意を削がれたのか、いつまでも路肩にトラックを止めていられないと思ったのか、運転手は「連れて行くより電話したほうが安全だと思うぞ」と真っ当なアドバイスを残し、その場から去っていった。
闇に覆われた曖昧な記憶。その中で常に茉利の左側にいた人物とすぐに分かった。本を捲るような整然とした口調は、声が違っても変わりようがない。
「ところで、あなたは誰ですか?」
「……覚えていないのか?」
「わたしは
未だ地面に座ったままだった茉利に手を伸ばし、再び引き寄せるような仕草をする。すると彼の身体はなんの支えもなく、何かの力に引っ張られて起き上がった。
「わたしの名はレグルザ。あなたの左腕。あなたと、幾人かの仲間とともに、暗い闇の中を彷徨っていた」
「……私も、お前を左側に立たせて、暗い闇を彷徨っていた記憶がある。だからお前を追いかけて、名を呼んだ」
「どうやら、わたしたちは何か超常的な現象に巻き込まれているようですね。この力といい─」
茉利がレグルザと呼び、そして自らを御厨と名乗った男は、もう片方のスリッパを引き寄せた。揃ったそれを差し出し、茉利の前に並べてみせる。
「あなたも、何か不可思議な力が使えるのですか?」
「今のところ、そういった兆候は無いな」
「フ」
「笑うな」
「これは失礼、それよりも、わたしたちは少し状況を整理する必要がありますね」
互いの顔すら知らなかったというのに、ふたりは既知の仲であるように淀みなく会話を交わしている。
安曇とのやり取りが脳裏をよぎった。彼は前世も霊魂も存在しないと言ったが、ではこの記憶は一体何だというのか─
しかし、ただ「前世」や「生まれ変わり」といったありきたりなオカルトで解決できない何かが秘められているのも確かだ。彼が見せた力こそがその証明だろう。
「ところでこのスリッパは?もしかして、あなた本当にどこか悪いんですか」
茉利は10年間意識不明であったこと、半年前に目覚めた際に「闇の中」の記憶を思い出したこと、そして今は経過観察中であることを説明した。
「おや、それは大変だ。おぶって差し上げましょうか」
「する気もないくせに」
「今だけは構いませんよ。この酷い服はどうせ捨てますから、皺が寄っても型が崩れても問題ありません」
パーカーにジーンズというスタイルは、彼の美意識に反するらしい。
「まあ、この容姿だけは及第点でしょう。あなたにしては良いものを選びましたね☓☓☓☓☓☓☓」
「……今、なんと言った」
脳は、聞き慣れない言葉を拾い上げることができなかった。聞き返すと、口にした張本人である御厨までが、何故かキョトンとしている。
「……ルーシェヴィカ」
夢を見ているような声音で彼は呟いた。
「思い出した、ルーシェヴィカ。それがあなたの名前だ」
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