第三話 記憶する魂Ⅱ
私は、暗い、暗い、己の四肢すら見えない闇の中を進んでいた。
疲労が溜まっているのだろうか、手足の感覚も、夜の寒さも感じられない。それでも私は─私たちは進むことを止めなかった。止めることを許されなかった。
『☓☓☓☓☓☓☓』
左側から声が響く。本のページを捲るように静かで、淡々とした、淀みのない口調だった。
『☓☓☓☓☓☓☓、考え事ですか?』
文頭の単語はノイズがかかったように聞き取れないが、どうやら私を呼んでいるようだ。
『ああ─どうかしたか?』
無意識に声が発せられる。そこでようやく、私は目の前に広がる情景が夢であると気がついた。
『今☓☓☓たちを偵察に行かせましたが、この辺りには……入植どころか羽根を休めることの出来る場所さえ無いようです。一面、暗くて、冷くて、水もないし、命もいない』
『そうか。では、また長く移動する必要があるな』
『彼らは批判するでしょうね。わたしたちの部隊はいつも時間がかかり過ぎていると─どれだけ困難な任務かさえも知らずに』
『不満か?』
一面の闇の中、左側にいる人物の姿は見えなかった。しかし私に対して敬意を払うような仕草をしたことは伝わってくる。
『勿論。しかし、あなたと共に任務を遂行できることは、わたしに─否、わたしたちにとって至上の名誉ですよ、我が師よ』
『ふん』
夢の中の私は唇を吊り上げた。尊敬され、褒めそやされることは好きだった。しかしそれだけではつまらない。
『よく言うな。お前は私を英雄として信奉しているが、同時に稀代の大馬鹿だと思っている─そうだろう?』
『ふ、』
途端、声の主は口調を崩して皮肉っぽく言い返した。
『あなたが稀代の大馬鹿者でなければ、この底無しの馬鹿どもはとっくに散り散りになっていますよ。わたしを含めてね』
『隊長ぉー!☓☓☓くんがサボってまーす!』
『はあ?お前が先にやりだしたんだろーが!』
途端、後ろから喧しい声が重なって聞こえてくる。
『おい、少しくらい静かにしろ!』
そして、私の右側から鋭い声が飛んだ。神経質な気質を隠そうとしない、尖った早口だった。声の主は心底苛立った調子で息を吐く。
『はあ〜、ぎゃあぎゃあ喧しい』
『☓☓、あなただって昨日は一緒に騒いでいたでしょう』
『あんときは休憩中だったんで』
左、右の人物が言葉を交わし合い、後ろでは相変わらずはしゃぐ者たちの声が聞こえてくる。当て所ない暗い闇の中でも、それは私に安らぎを感じさせた。
「前世の記憶?」
安曇医師の診察が「異常なし」という結果で終わったあと、茉利はふと思い立って質問をした。「前世というものは存在するか?」と。
「どうした、急に」
「この前動画でそういうのを見て、気になったんです。先生って人が死んじゃうところを沢山見てるんでしょ、前世とか、幽霊とか、感じたことある?」
10年間心の時を止めていた無邪気な少年を装って、茉利は身を乗り出す。
すると安曇は、ただでさえ眉間に固定された皺をますます深くした。
「君のスマートフォンには、まだフィルタリングサービスが必要なようだな」
「もう付けられてるよ。それに前世も幽霊も、別にエロくもグロくもないじゃん」
「悪趣味で低俗なオカルトは、ポルノとそう変わらない」
安曇医師は、大人に対するものと変わらない態度で茉莉に接する。あまり子どもを好む性格ではないのだろう。いかにも神経質そうに指を机で叩きながら、彼は息を吐く。
「……幽霊を死者の霊魂と定義づけるならば、全くありえない話だ。人間に観測されることが前提の存在など、単なる妄想の産物に他ならない」
「じゃあ、他のものに定義したら?」
安曇は眉をひそめたあと、やがて口を開く。
「他のもの?敢えて言うなら─」
不意に、診察室の扉が叩かれる。ややあって、金のメッシュが入った髪をお団子にした、背の高い女性が顔を覗かせた。
「志羽くん。ノックをしても、返事をする前に開けてはなんの意味もないが」
「先生、滅多に返事しないでしょう」
「……それで、診察中に扉を開けてまで私に声をかける必要がある用事とはなんだ」
嫌味たっぷりの安曇の言葉を軽くかわし、志羽はまつりと視線を合わせる。
「まつりくん。銀行が混んでるらしくて、お父さんちょっと遅れちゃうみたい」
行成はまつりを車で診療所に送り届け、その間に銀行で用を済ませ、またここに戻ってくるという計画を立てていた。銀行の列の真ん中で慌てて連絡を寄越したのだろう。この10年間を思えば無理もないが、彼は過保護な父親だった。
「だから、ちょっと待合室で待っててね」
「うん、分かった」
「ココア飲む?甘いの好きよね」
「いいの?ありがと」
ここは訪問診療が専門であり、院内で診察するのは茉利を含めたごく僅かなかかりつけ患者のみだ。待合室でココアを飲んでも咎める者はいない。
目が覚めてからの茉利は、とにかく甘味を好んだ。頭が直に栄養を吸っているような感覚がして、夢中で摂取してしまうのだ。
「診察は終わりだ、父親を待つといい」
「本当はひとりで帰れるんだけどね」
「最近は物騒だから駄目よ。おかしな事件が流行ってるんだって。氷漬けだっけな」
「そっか、そうだったね」
茉利は、ネットニュースの片隅にそのような記事があったのを思い出す。恐らく液体窒素のようなものを用い、車、外壁、果ては野良猫を凍結させる奇妙な事件が続いているのだ。被害件数は10件、それぞれの場所は─そう思考を巡らせたところで、彼は顔を顰めた。
10年分の記憶が、違和感を訴える。たった一度視界の片隅に捉えた記事の内容をここまで明瞭に覚えていられるのは異常だと。
─前世、か。
安曇医師の言うとおり、荒唐無稽なオカルト話だ。しかしまつりは、今ここにある自我や記憶が、脳の損傷によって偶発的に産み出されたものだとは考えたくなかった。
─私は、そのような不安定な存在ではない。
─私の記憶は、まやかしではない。
眠りを必要とせず、五感で捉えたあらゆるものを記憶し、そして起源の分からない奇妙な記憶の数々を保有している。
そのような状況が、果たして偶発的に産み出されるものだろうか。どれほど考え込んでも、推論は結論とはならない。茉利は自分の正体を知る術を探している。そして証明したいと望んでいる。
「私は、生きている─」
『☓☓☓☓☓☓☓』
ふと、声が聞こえた。それは鼓膜ではなく、もっと脳の内側、髄に至る部分を震わせたように感じた。
『どこにいますか、☓☓☓☓☓☓☓』
導かれるように立ち上がり、茉利はふらりと歩き出す。その爪先が向かうのは診療所の入り口だ。
志羽は休憩室でココアを淹れ、事務や助手を担う青年、砂月はベランダでシーツを干している。今、彼の行動を把握する者はいない。
スリッパのままガラス戸を押し開け、診療所を出る。乾いた暑さが汗腺を刺激し、日差しが肌を焼く。
「おい」
誰ともなく呼びかけた。頭の芯が痺れるように痛む。何かが繋がりそうで繋がらない、届きそうで届かない。
「おい!」
今度は、腹の底から叫んだ。低く通る声が閑静な住宅地の空気を震わせる。すると、道の角から「へっ!?」と間抜けにひっくり返った声が聞こえた。
「……あの、何か?」
角からひとりの若者が顔を覗かせる。20代半ばと思しき痩身の男だ。色素の薄い髪にウェーブをかけ、襟足が隠れる程度に伸ばしている。
「お前、私を呼んだか」
「……え、いや……?」
茉利は、尚も彼に向けて歩を進める。やがて、その手をゆっくりと伸ばした。そうするべきだと思ったのだ。
「お前は─」
次の瞬間、アスファルトのへこみに爪先が引っかかり、茉利の身体がふわりと浮く。受け身を取る間もなく、彼は思い切りその場に転んでしまった。
「え、だっ、大丈夫ですか?!」
『あのさ、この暗闇ではぐれたら……おれたち合流できないよね?』
誰かが、怯えた調子で言った。
『大丈夫』
左に立つ者が、宥めるように言った。
『☓☓☓☓☓☓☓に、わたしたちを呼んでもらえば良い。彼の声はよく通るから、
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