第二話 記憶する魂Ⅰ


 半年後の朝、茉利はキッチンに立ち、フライパンに割った卵を落とした。ベーコンエッグは効率的な食事である。朝の忙しい時間に、手軽で安価に蛋白質が摂取できるのだから。

 換気扇のスイッチを入れ、電気ポットに水を注いでいると、階段から慌ただしい足音が聞こえてきた。

 ボサボサの髪に痩せた長身、着丈の合ってない吊るしのスーツを着た彼は剣崎行成。茉利の父である。


「おはよう、父さん」

「お、おはよう。良いのに食事なんて。お前もまだリハビリが一段落ついたばかりなんだから」

「だってひまだし」

「飲むけど……あ、ゴミをまとめ」

「もう捨てた。あと昨日のYシャツ、袖が汚れてたからクリーニング出したいな。染み抜き?っていうのじゃだめだった!」


 奇跡的な目覚めから半年、茉利は驚異的な回復力により、なんの問題もなく日常生活を送れるようになっていた。


「あ、ありがとう。なんかごめんな、最近は何でもやってもらっちゃって」


 ハンドドリップで淹れたコーヒーを受け取り、行成はそれを啜った。説明書を読んだだけだというのに、茉利が淹れたコーヒーは香りが良く温度もちょうど良い。


「ああ、美味しいなあ」

「ありがとう」


 礼を言いながら、茉利は機敏に椅子の後ろを通り、壁にかけた背広にハンディアイロンをかけ始める。あっという間に皺が伸びたそれに背を向け、今度は半熟になったベーコンエッグを皿に乗せた。

 ならばパンは自分が焼かねばと行成が立ち上がろうとした瞬間、バターの容器と焼き立てのトーストが同時にテーブルに並ぶ。


「茉利〜、早いよぉ」

「昨日も同じ時間だったよ」

「そうじゃなくて、父さんも手伝いたいのにお前がテキパキしてるから……」

「お父さんはこの10年、おれの世話をしてくれたんでしょ?そのお陰で元気になれたんだから、恩返ししたいな」


 ショートボブの黒髪をかき上げ、まつりは吊り上がった目を細める。リハビリ病棟ではその容姿で随分と人気者だったようだ。

 口調や仕草には10歳らしい幼さが残っているが、それもいずれ年相応になれば、立派な男に成長するだろう。


「ほら、早く食べて。おれ毛布干すから」

「うん……」


 鼻をすすりながらパンを噛む。時刻は7時半だが、すでに洗濯まで終えているらしい。毛布を洗ったということは他の衣類と合わせてすでに2回洗濯機を回したのだろう─


「ちょっと待って、茉利!」

「なに?」

「お前何時に起きてるんだ?洗濯機2回回すのなんて、2時間はかかるだろ。他の家事も終わってるし……」

「掃除機はまだだよ、朝はうるさいからだめってお母さんが前に言ってたから」

「そうじゃなくて、ちゃんと眠れてるのか?」


 思えば、家に帰ってきてから数週間、茉利は常に行成の後に就寝し、そして早く起床している。今までその事実に気付かなかった至らなさを恥じながら、行成は父親として息子に向かい合った。


「体調が悪くなったら大変だろう、あまり無理はしないで、少しはゆっくりしてなさい」

「眠る」


 茉利は何故かその単語を繰り返し、目を細めた。


「分かった、今日からは8時間寝る」

「8時間か……それなら平気かな。眠れないわけじゃないんだよな?」

「大丈夫。今まで寝てたから、眠るのが勿体無いんだ」


 薄く微笑み、茉利は行成のネクタイを直す。寝たきりの生活の中でも、彼の身長は167センチまで伸びた。


「ほら、お父さんこそ健康には気を付けてね」


 あやすように肩を叩かれ、行成は複雑な気分になったが、息子が作ってくれた食事を冷ましてしまうわけにはいかないと、食卓に向かい始める。 

 毛布を干すため階段を上り始めた茉利は、階下の父を一瞥した。


「面倒だな。睡眠という行為は時間が短いだけで不自然に思われる」


 彼は、この半年間一度も睡眠を取っていない。11歳までの記憶の中で、睡眠という行為の存在は知っていたが、肝心のやり方が分からなかった。朝まで目を閉じても、睡眠薬を飲んでも、彼の意識が途切れることはなかったのだ。体調に異変がないと気付いてからは、そういった努力もやめている。  


「後遺症で片付けるには、少々奇妙か」


 落ち着き払った口調、冷たい眼差し、そのどれをとっても先程まで父と話していた態度とは大きく異なる。こちらが、剣崎茉利のありのままの姿だった。

 11歳から10年間昏睡状態にあった人間としてはあまりに異様だ。それを理解しているからこそ、茉利はこの姿を誰かに見せたことはなかった。


「……私は、剣崎茉利」


 青白い掌を見下ろす。名前も、小学生として過ごした時間も、両親のことも、鮮明に思い出せる。しかしそれは本や映画の中の出来事のようで、実感を持った記憶として受け入れることが出来ない。まるで突然、剣崎茉莉という人間の身体に入ってしまったかのような感覚だ。


─私は何者だ。


 ドリップコーヒーの淹れ方も、流暢に紡がれる言葉も、家事の方法も、教わらずとも頭の中に存在した。

 しかしそれは、毎日学校に通い、公園で遊び回っていた剣崎茉利の記憶ではない。

 カゴに押し込んだままだった濡れた毛布を抱えて、茉利は父の部屋からベランダに続く扉を開ける。爽やかな初夏の風が頬を撫でた。

途端、言いしれない幸福感が胸を満たす。風の涼しさも、濡れた毛布の感触も、階下から漂うコーヒーの香りも、素足に触れるサンダルの冷たさも、五感で感じるものすべてが鮮やかで美しい。それは目覚めてからずっと離れない感覚だ。自ら四肢を操り、五感を研ぎ澄ませ、目まぐるしく動く日々は確かに幸福だった。


─だが、完全ではない。


 漠然とした退屈さが、胸の中心にぽっかりと穴をあけている。

 何かが足りない。つまらない。そしてその空白を埋めなければならない。そんな気がした。

手すりにかけた毛布を布団ばさみで固定し、彼は行成の部屋へと戻る。すると、部屋の隅の姿見が、中途半端にカバーを剥ぎ取られたままになっていた。慌ててネクタイを結び、そのまま階段を降りていったのだろう。


「まったく、ずぼらな奴だな」


 ぼそりと呟き、茉利はカバーを直すために姿見の前へ立つ。黒いスウェットに身を包んだ痩身が写し出された。貧相で子どもっぽさの抜けない容姿には不満が募る。しかし─


「……あー」


 低音が空気を震わせ、まつりは笑う。録音でも聞いてみたが、彼は自分の声を気に入っていた。低く張りがあり、よく通る。声が良ければ見目は二の次。昔からそうだ。


─昔から?


 自分の思考に、ふと疑問を抱く。


『お前は、いつも必要以上に見た目を着飾っているな』


 浮上したのは、奇妙な記憶だった。

 暗い中に己の声が響く。誰かに向けて語りかけたそれに、返事があった。


『必要の基準は人それぞれですよ、☓☓☓☓☓☓☓。私からすれば、あなたは必要以上に勿体ぶって物事を話すように思えます』

『味方を鼓舞するために必要な演説だ』

『ではわたしも言いましょう、これは最低限の身だしなみですよ。少なくともわたしにとってはね』


 姿見の奥、まつりの肩越しに誰かが立っている。捲られる本のページのように淡々と、絶え間なく、澱みなく、言葉が続く。特徴的な話し方は記憶に鮮明に焼き付いていた。


『聞いていますか?☓☓☓☓☓☓☓』




「お前は─」

「茉利?」


 名を呼ばれて振り返ると、背広に腕を通した行成が部屋の入口から顔を覗かせていた。


「ご飯ありがとう、父さんもう出掛けるよ」

「……わかった。いってらっしゃい」


 労うように背中を叩きながら、鏡の方に視線を向ける。そこにはもう、黒い影は見えなかった。











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