第一章《星の目覚め》
第一話 弾けた星
「
都内某所、郊外に建つ一軒家の一室。大きなベッドと溢れるほどのおもちゃやCDが置かれたその場所には、今は心電図モニタや輸液ポンプなどの医療機器が運び込まれている。
背の高い女性看護師が、少し強張った口調で観察所見を医師に囁く。その情報の全てが、ベッドに横たわる者の命が尽きかけていることを示していた。
「行成さん」
ソファに腰掛ける壮年の男、
「DNAR《心肺蘇生拒否》の同意は受け取っていますが─」
「いいんです。僕の気持ちは、同意したときと同じですよ」
くしゃくしゃの天然パーマの下で、安曇が切れ長の目を眇めた。感情の見えない態度だが、剣崎を案じているのだろう。それが分かる程度には長い間彼と関わってきた。
「分かりました」
「先生、ありがとうございます。本当に……
看護師の志羽と助手の砂月。診療所のスタッフである彼らとも、浅からぬ縁となった。皆で「彼」を守り育て、成長を喜び、そして今、その最期を看取るのだ。
「私達へのお礼はいりません」
「そうですよ、それよりまつりくんの手を握ってあげてください。ほら、砂月くんそこどいて」
チアノーゼによって紫に変色し、冷え切った指を熱心に温めていた砂月は、名を呼ばれて慌ててベッドの反対側に移った。
ガタガタと揺れた線を引き続ける心電図モニターが再び警告音を発し、志羽が素早くアラームを止める。もうこの音を聞きたくはなかったので、ありがたかった。
意を決してソファから立ち上がり、ベッドに近づくと、ひとりの青年が横たわっている。
一時期は繋がれた管で埋もれそうな様子だったが、今は呼吸器や導尿カテーテルも外され、本当にただ眠っているだけに見える。
10年前、交通事故に遭った行成の妻は死亡し、息子の
いつか息子が目覚めることを希望に、春には入学式を、夏には七夕を、秋には誕生日パーティーを、冬にはクリスマスをこの部屋で楽しみ、眠る彼に語りかけ続けた。
当時11歳だった茉利は、もう21歳になった。背が伸びて、喉仏がせり出して、小柄ではあるが確かに大人の男へと成長している。しかしそれも、今日で終わりだ。
ひと月前に肺炎を発症してから、茉利の全身状態はみるみる悪化した。一時は大学病院に入院させることも考えたが、そこでも彼を完全に回復させることは出来ないと告げられた。
茉利は甘えたがりの子どもだった。幼稚園のお泊まり会を嫌がって、夜中に熱を出して早退したこともある。家に近づく度に熱が下がっていき、妻とふたりで「寂しかったのかな」と笑いあった記憶を思い出す。
そんな息子の人生を、見知らぬ病院の一室で終らせるのは忍びなかった。茉利の誕生と同時に建てたこの家で、家族の帰る場所で、ゆっくりと眠らせてやりたい。それが行成の望みだった。
妻に似た真っ直ぐな黒髪を撫でる。志羽と砂月が定期的にシャンプーをしてくれるお陰で、髪は滑らかだった。そして青白い頬に、閉じられた二重の瞼に、それぞれ触れていく。
「あ」
まだ年若い砂月が息を呑んだ。再びアラームが鳴り、ちぐはぐだった心電図が真っ直ぐな線となる。
しかし、その刹那、まつりの下顎が動いた。まるで喘ぐように、苦しげに息をしているように見えて、行成は目を見開く。
「せ、先生」
思わず白衣の腕を掴んだ。
「死戦期呼吸です。心停止の後、脳が低酸素状態に反応して、呼吸中枢に刺激を送っているときに現れる所見です。苦しそうに見えますが、実際には呼吸も停止していて、意識もありません」
安曇は専門用語を噛み砕きながら、低い声で説明する。一見冷たく見える態度だが、行成に「茉利は苦しんでいない」と懸命に伝えようとしているようだった。
それが本当かは本人にしか分からない。しかし今は、安曇の言葉を信じたかった。
「……先生」
「はい」
「息子は、生きていましたよね。この10年、こいつなりに、頑張って」
「はい。行成さんも茉利くんも、ふたりで、この家で、懸命に生きていましたよ」
「……そう、ですよね」
冷たい手を握る。自分の体温を分け与えるように。
「茉利」
震える声で名を呼ぶと、一際大きく下顎が動いた。それが最後だった。
力のない掌を握りしめたまま、行成は再び額を撫でる。若くして両親と死に別れたときも、妻が死んだときも、不思議と涙は出なかった。ただ深い悲しみと喪失が、心に大きな穴を作っている。
安曇が死亡確認をするだろう、早く退かなければならない。分かってはいても、その冷たい肌から離れることができなかった。
「まつり」
息子が生まれた、夏祭りの日を思い出す。まつりと名付けたのは、それが理由だ。
散歩で虫をポケットに詰め込んだとき、スーパーで迷子になったとき、何気ない日常の思い出が脳の中を溢れんばかりに埋め尽くす。
「まつり」
もう一度、名を呼ぶ。次の瞬間、それは起きた。
ぴくりと茉利の手が動いたのだ。
「えっ、えっ、先生!」
砂月がひっくり返った声でモニターを指し、音量を上げる。
ぴ、ぴ、と規則正しい電子音と共に、真っ直ぐだった線に波が生まれていた。
安曇は、首にかけた聴診器を千切れんばかりにむしり取ると、茉利の胸に押し当てる。彼はやがて、呆然とした様子で行成を振り返った。
「呼吸が」
「え」
「呼吸が、再開しています」
行成もまた、夢を見ているような心地でまつりの顔を見た。その唇からは微かに、しかし規則的な呼吸が感じられる。そして─
「先生!先生!」
志羽と砂月は、互いの腕を掴んで、ひどく興奮した様子だった。彼らはそれ以外の言葉を失ったかのように安曇を呼び続ける。
「……あ」
彼らの視線の先、この10年伏せられていたはずの目蓋が震えた。そしてゆっくりと、そして確かにそれが開かれる。
黒い瞳の中に光が差し、星のように瞬いた。
「志羽、バイタルチェックを」
「は、はい!」
「砂月は毛布。すぐに身体を暖めろ」
「はい!」
「行成さん、私は搬送の手配をします。こんな事例は滅多にありませんが─少なくとも病院で診察を受けるべきだ。ええと、少しお待ち下さい。電話をするので─」
安曇もこの事態に動揺したのか、落ち着きなく捲し立てながら、スマホを取り出した。慌ただしくなった室内で、行成は茉利の顔を覗き込む。
「茉利、分かるか?父さんだぞ」
瞳が動く。視線が交わる。そこには確かに、脳の反射とは違う明確な意思を感じた。
「茉利……」
目尻が熱くなり、視界が滲む。
「お父さん、茉利くん起きてますよ!ほら、まつりくん、分かる?」
「志羽、騒いでないでバイタルを測れ」
「はい、ごめんなさい!」
志羽は優秀で機敏な看護師だが、普段の態度が嘘のようにはしゃいだ声を出した。その目からは、行成のように涙が伝っている。
「よかった、よかったねえ、まつりくん」
この日、剣崎家に奇跡が起きた。
10年間昏睡状態にあった剣崎茉利が、その死の淵から目を覚ましたのだ。
私は、暗闇のただ中に居た。上も下も左右もない、永久に広がる闇の中、私だけが宙に浮いていた。永い時を、そこでぼんやりと過ごした。その内に疑問と怒りが胸の内から湧き出、溢れた。
「なぜ、私はここにいる」
「私は、ここで何をしている?」
「いつまで、ここにいる?」
闇に覆われた記憶の奥から、ひとつの言葉が落ちてきた。
『お前って、本当に生きるのが好きだな、☓☓☓☓☓☓☓』
からかうような調子の声に、私はこう返したはずだ。
『当たり前だろう。私は生きていたい。そしてそれを実感したい。常に、絶え間なく、永遠に』
私は燃える怒りのままに、闇の中へと叫んだ。
「そうだ、私は生きたい。生きていたい。こんなところで漂っている状態が、生きていると言えるか?いいや、違う!もっと怒りを!喜びを!苦しみを!熱狂を!痛みを!快楽を!あらゆる全てを感じるための、命が─」
命が欲しい。
刹那、闇の中に星が弾けた。この世のあらゆる色を孕んだ、焼けるように鮮烈なそれは、闇を瞬く間に振り払い、そして私の意識を貫いた。
「まつり」
寒い、寒い、寒い、震えが止まらない。
「先生、
「電気毛布の温度を上げろ。行成さん、暖房をつけますね」
見知らぬ男が手を握っている。その手は燃えそうなほどに熱く感じた。
「まつり」
男は大粒の涙を零しながら、私に何かを語りかける。「まつり」─一体何のことだろう。
「まつり、わかるか?今暖かくしてもらってるからな」
それはどうやら、私の名前であるらしい。
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