第2話

そしてカトリーナが読んでいた本を輝いている尖った靴で踏み躙る。

カトリーナが本に手を伸ばそうとすると立ち上がれと言わんばかりに扇子で再び顎を掬われる。



「文字も読めるのね……気に入らないわ」



パシンと、また反対の頬に痛みが走る。

貴婦人の声はどんどんと低く恐ろしくなり、それと共に痛みもひどくなった。

何度も母に助けを求めたけれど……母は私が見えていないとでもいうように顔を背けている。

永遠のような長い時間の中、顔をしつこく叩かれていた。

顔はパンパンに腫れていたように思う。上下する肩と荒い息が聞こえた。



「……明日から、この子をお前と同じように働かせなさいっ!」



そう吐き捨てて貴婦人は去って行ってしまう。

その日、カトリーナは生まれて初めて感じる恐怖と痛みで体が震えて眠れなかった。

大好きな本が読めないのは初めてだった。

心細さから母に助けを求めるように手を伸ばしたが、すぐに腕を引く。

母はカトリーナに背を向けて何も言わなかった。 


その次の日、カトリーナは初めて屋根裏部屋から足を踏み出した。

髪も切らずにろくに体も洗っていないカトリーナは汚れていたらしく、体を洗い身なりは整えてから真新しい服に着替えた。

嬉しかったのは最初だけ。さっぱりした体ですぐに仕事をはじめるように言われた。

押しつけられる仕事は皆が嫌がる仕事ばかりで、何故か他に働いている人からも距離を置かれている。


あの貴婦人はサシャバル伯爵夫人といい、この邸でとてもえらいそうで誰も逆らうことができない。

サシャバル伯爵夫人の暴言は毎日、カトリーナを蝕んでいくように耳に残る。


母の真似をして、カトリーナは必死に仕事を覚えていた。

カトリーナが動けば母の負担が減ると思ったからだ。

少しでも母に楽をさせてあげられたら……でなければ母がいなくなってしまうのではないか、カトリーナは本能的にそう感じていた。


しかし母はカトリーナがそうすることを望んではいなかったようで、屋根裏部屋に帰れば「あなたは余計なことをしないで」と怒られてしまう。

最初はカトリーナのために心配してくれているのだと思ったが「こんな家の奴らのために一生懸命働かなくていい!」そう怒鳴った母はカトリーナのためではなく恨みから出た言葉だと気づいて、心は空虚になっていく。


食事もろくに取らずにカトリーナよりも長く働く母を見ていた。

言いつけを守り、余計なことをしないようにした。

そこでカトリーナは生まれて初めて母に「無理をしないで」と意見しようとするが開きかけた口を閉じる。

今までに感じたことのない不安がカトリーナを襲う。


そんな生活を続けていると、限界がきたのか母は起き上がれなくなるほどに体調を崩してしまう。

屋根裏部屋の前には親切な誰かから薬が届けられた。

置かれていた真新しい果物も、カトリーナが持ってきた食べ物も母は絶対に口にしなかった。


「あなたが食べなさい」


カトリーナは食い繋ぐことはできたけれど、母の容態は悪化するばかり。

カトリーナは毎晩、震えが止まらずに骨と皮になっていく手を握ることすらできないまま、息をしているかを確認していた。


そんな時、カトリーナに一筋の光が差し込んだ。

たまたま侍女達が話していることを聞いて、自分の父がサシャバル伯爵であることを知ったのだ。

カトリーナは縋るような思いでサシャバル伯爵の元を訪ねた。

「どうか母を助けてください」

そう訴えかけたとしても彼はカトリーナと目を合わせることなく、苦い表情をして顔を背けてしまう。

邸で働く人達に頼ろうとしても皆、同じ顔をする。


思えばサシャバル伯爵夫人が母を虐げようと、手を差し伸べることはなかった。

カトリーナはこの人に期待するだけ無駄なのだと気づいて、誰にも頼れないならばカトリーナがなんとかするしかないと思い、母のためにできることはなんだってやった。

どうにかして母を救いたいと何度も何度も神様に願った。


しかしカトリーナの願いは叶うことなく母は衰弱していった。

母は熱に浮かされながらカトリーナを睨みつけて何度も何度も繰り返しサシャバル伯爵や夫人の恨み言を言っていた。

「絶対に許さない……!」

カトリーナはその時、悟ったのだ。

憎き男の血を半分引き継いだ『カトリーナ』を、母は愛してくれることはないと。

弱りゆく母の姿を見て、触れることも許されないまま椅子に座っていた。


「あの女と娘、あの男を殺して……!お願い、カトリーナ」


そう言って、本当に久しぶりにカトリーナの名前を呼んだ母は息を引き取った。

だが、涙は出てこなかった。 


(……神様なんて、いない)


カトリーナは息絶えた母をずっと見ていた。

次の日、仕事をするために現れないカトリーナと母を怒鳴りながらやってきたサシャバル伯爵夫人は息絶えた母の姿を見て赤い瞳を見開いた。


そして笑い声に気づいて顔を上げると、真っ赤な唇が綺麗に弧を描いている。

そのまま腹を抱えて大笑いしているサシャバル伯爵夫人をカトリーナは呆然と見つめていた。

狂ったように笑う夫人に気づいて屋根裏には人が集まってくる。


サシャバル伯爵は苦虫を潰したような顔をした。

今もサシャバル伯爵夫人の真っ赤な唇が、カトリーナの脳裏に焼き付いたようにずっと離れない。


葬儀はカトリーナが邸で仕事をしている間に行われたのだと聞いた。

カトリーナが屋根裏に帰ればもう誰もいない。

『母』としての形がなくなったとしても、カトリーナは何も感じなかった。

ただ少しだけ、呼吸がしやすくなったような気がした。


それからいつもと同じ日常が始まった。

いや、少し違うかもしれない。


侍女達は母がいなくなった時から、ほんの少しだけ優しくしてくれるようになる。

サシャバル伯爵夫人が見ていない間だけは話しかけてくれたり、仕事を代われば食べ物をくれると言った。

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