第23話

 アルは駆ける。

 冬の終わりが見え始めた、春の訪れにはまだ少し遠い、けれど色付き始めた故郷の地を蹴って、風と共に走り抜けていく。

 石くれの多い土地だ。

 踏み固められた道にも当たり前に一抱えもありそうな石が転がっていて、迂闊に目を離せば脚を取られることもある。

 当然、壁との連絡を断とうとする異民族らの目を掻い潜るには街道など行けず、森から森へ、起伏を迂回し、ひたすら身を隠しながらの行動になる。


 昨夜はラウロの防寒具に助けられたが、一刻も早く壁へ辿り着く為に彼女自身は革の服程度しか身に付けていない。

 袖の長い冬用の、穴の開いたボロ服と、乗馬の時にも拝借したラウロの短いズボンをそのまま着ている。ズボンの裾からは竜燐の浮かぶ接合部が見え隠れしており、義足そのものは膝下まで革のブーツで、腿の辺りまでは保護用の靴下で覆われている。

 脚部稼働用装具を分解してどうにか用意してくれた品々だが、非常に動きやすくてアルは気に入っている。

 走れば、スカートは邪魔になりそうだ。

 年頃と呼ぶにはまだまだ幼いが、ややもズレた思考で坂道を降り、小川を飛び越える。

 ブーツの踵が対岸の砂利を踏む感覚を得ながら、膝を折り曲げ、そこに掛かる負荷を読み取って更に前へ。


 古龍の心臓、ジーンが言うには心筋という部分を用いて作られた義足は、不思議なことにアルへ脚の感覚を与えてくれた。

 腕ほどに鮮明ではなく、何か間に挟まったようなものであるのだが、自らの脚で歩くことを知らなかった少女としては鮮烈な経験ではあった。

 ブーツである程度稼働を制限しているとはいえ、踏み損ねた砂利で僅かに右足首が外へ広がった感覚などは、見逃していると思わぬ転倒に繋がりそうだ。

 そんな一つ一つを丁寧に観察し、考えながら大地を駆けていく。


「っ、っはあ! は、っ! はぁっ、はあ、はあっ!! っっ!」


 順調そうに見えるのだが、実の所問題はある。

 肉体が古龍の心臓によって作り変えられているとはいえ、アルは先日まで自力で走った経験が無かった。

 車椅子などで過酷な坂道を登ったり、腕力を鍛えるべく重たい物を持ったり、体力づくりは行っていたのだが、全身を使って動くとなればまた違ってくる。


 人間離れした動きには、人間離れした負担が伴う。


 未だ人としての部分が悲鳴をあげ、心臓などは痛みを伴うほどに強く鼓動を続けていた。

 胃は縮みあがり、無理矢理にでも食えと与えられたラウロの糧食は別れて早々に吐いた。

 感覚の鈍い義足部分は分からないが、特に股関節や腰回りの負担も大きかった。

 走っているだけなのに何故だか背中まで痛む。

 乱れた呼吸のまま走り続け、不足した酸素を取り込もうと肺が急激な活動を始め、更に呼吸を乱した。

 徐々に頭もぼやけてきた。

 明らかに過剰な運動量だ。

 本来なら何処かに身を寄せて一時的にでも身体を休めるべきだろう。

 それで回復するかは別として、魔力の過剰使用による転化以前の問題だった。


 なのにアルの脚は止まらない。


 遠く草原を堂々と駆ける異民族を見た。

 大きく迂回し、また時間を損なったと後悔する。

 ラウロ達があの厄介な者達を押し留めてくれているとしても、大地は広く、全てに目は届かない。


 時折、自分が今どうしているのかが分からなくなる時がある。


 古龍による浸食の影響だろうか、空を飛んでいるような感覚を得るのだ。


 遠く見たことも無いような山々を見下ろしながら、人に恐怖を与えるべく飛ぶ龍は、けれど大きなその身に受ける風を心地良いと感じていたらしい。

 転化したということは、元になった人間も居る筈だ。

 ならば、見える景色は龍にとっても故郷と呼べるもので。

 産声をあげるように炎を吐き、その景色を焼き尽くす様は、未だ母を求めて手を伸ばす赤ん坊と変わらなかった。


 ハッとして前を見る。

 起伏を登り始めてしまっていた。

 無暗に姿を晒すのはいけない。

 速力で馬に大きく勝るとはいえ、アルの身体はいつ破裂してもおかしくないほどに酷使し、思考は穴の底へと沈み込もうとしている。

 どこかで倒れてしまうにせよ、敵に見付からない場所でなければ。


 いや、倒れてたまるかと脚を踏ん張る。


 土を後ろへ蹴っ飛ばし、前へと身を投じた。


 流れていく景色が徐々に見慣れないものへ変わっていく。

 村から、砦からも大きく離れ、壁に近づいているからだ。

 今更だがアルは壁を見たことが無かった。

 なにせ外地の人間は基本的に壁の内側へは入れない。

 許可を得た時や、特別なお祭りなどがあった場合に限り、一時的に開放されることはあるという。

 例えば王様の戴冠式などだ。

 けれどアルが物心ついてから新しく王様が変わったことはないようで、数日掛かる道程を誰かに車椅子を押してくれなどと頼める筈もなく、噂に聞くのが精々だった。

 もう少し幼い年頃で壁を見に行くというのは、村の男の子達がよくやっている冒険だ。

 こっそり食料を貯め込み、年上の誰かから道のりを聞き出し、計画を立てて数人で村を出る。

 ラウロなどは三度も行って、その度にアルへ自慢してきた。


 その彼から聞いた二つ丘が見えていた。

 西に向かって右側が少し高く、左側は広く低い。

 間を流れる小川があって、麓は池になっている。

 森が濃く、土地が随分と豊かになっているのが分かった。


 あと少しだ。


 思いながら、すっかり喉が渇いていることに気付いた。

 随分と汗を掻いている。

 不思議と空気が暖かい。

 濡れた頬が南からの風を受け取る。

 ここは東の高原からではなく、南から風を受けているらしい。


 こんな場所であれば日々畑仕事に苦労することなく、適当に森へ入って食べ物を探すだけで生きていけそうだった。

 どうしてここには人が住んでいないんだろうか。

 砦の周辺から出た事の無かったアルは、思えばそこを離れてから人家を見たことがないことに気付く。

 答えの出ないまま駆け続け、痛む心臓と荒れ狂うような魔力を宥めながら坂道を登る。


 あと少し。


 もう少し。


 丘を越えれば、壁が見える筈だ。

 二つ丘の先、丘陵の向こうに小さな、けれど本当はとても大きな壁が見える。

 百年もの間異民族の侵略を抑えてきた、さる英雄が築いたとされる巨壁だ。

 切り立った山脈の間を埋める様に巨大な壁が続き、到底人が辿り着けないだろう山頂にさえ石垣を築いているという。

 一度ならず目にしたいと思っていた光景がもうじき見えてくる。

 息も絶え絶えな中、求める様に、喘ぐように手を伸ばしたアルは、不意に足元が傾ぐのを感じた。

 走り過ぎて、疲れ過ぎて感覚を忘れていた。

 踏んだ小石が奇妙にズレて、軸足が内側へ滑る。

 倒れた。

 かろうじて膝を付き、両手で踏ん張り、けれど。


「はぁっ、はぁっ、っ…………あれ」


 限界などとうに超えていた。

 碌に食事も受け付けなくなっていた身体で、今まで走ったことなど一度も無かったのに、喉が渇いたのも忘れて走り続け、極めて単純な、極度の疲労という理由でアルは動けなくなっていた。


「っっん!! っ、ごけよぉ……! こ、っのお…………っ」


 脚が自分のものではないみたいだった。

 いや、最初からそうだったのだ。

 なのに、突然降って湧いた幸運でソレを手に入れて、我が物として存分に酷使してきた。

 古龍の心筋は強力だろう。

 人並外れた生命力とやらで、確かにアルは周囲が驚くほどの順応をしてみせた。

 それでも限界はやってくる。

 脚を動かすのに必要な力と、それらを補助するあらゆる栄養の不足。

 溜まった疲労を溶かし、循環させ、輩出していくべき器官の麻痺。

 極度の興奮が成し得た奇跡のような出来事も、二日続けの酷使には耐えられなかった。


「そう、か……よぉ……っ! いいよ。慣れてるし、っっ!!」


 脚が動かない。

 だから少女は、いつか車椅子から放り出された時のように、あるいは今まで何度もそうしてきたように、地に這い蹲って腕を伸ばし始めた。

 それとて疲労で上手くはいかない。

 土地に緑が増えたとて、石くれは多く、這いずる内に腕や肩をぶつけ、傷付けた。胸を打って痛みに呻きさえする。


 もう少し。

 あと少し。

 壁が見えて。

 それで。


 それで。


 それでも。


「っっっ、負っけるかああああああああああああああああああああああ!!!!!!」

 

 進み続けた。


    ※   ※   ※


 冬の寒さは和らいだが、冷えた風は時折東からやってきて、打ち付けた壁を這いあがってくる。

 夜の見張りがもうじき終わる。

 欠伸を噛み殺して視線を巡らせた青年は、ふと昔を思い出した。

 七年ほど前の出来事だ。


 剣も駄目、弓も駄目、座学はそこそこで、言ってしまえば落ちこぼれ寸前だった彼が戦士団ならぬ見張りの小僧として仕事を得ていたのは、一重に目が良かったからだ。

 夏はぼやけて二つ三つが限界だが、冬の澄んだ空気ならば五つか六つは見通せる。

 とはいえ巨壁の見張りというのは退屈なもので、兵士らが探しているのは専ら異民族の一団ではなく、そこらに顔を出す鹿や狼だ。

 狼肉はイマイチだが、鹿は実に旨く、皮を売れば金にもなる。

 彼らが真面目に取り組むにせよ、狩りに興じるにせよ、三方向へ突出した砦が異民族の襲来を知らせる手はずになっているので、いきなり攻撃されるということがない。

 仮に来ても、騎兵で壁は登れないから、のんびりを矢を射っていれば連中は逃げ帰るのだと聞かされていた。


 けれど、七年前。

 そう、あの日も彼はここから東を眺めていた。

 まだ雑用も同然で、丘の向こうで倒れた何かを、人ではないかと感じながらも、報告を躊躇ってしまった。

 終業の鐘が鳴るまでの時間、じっくり観察して、動いている様を確認しても、やはり人であるというより獣か何かに思えたのだ。いや、自信が無かったと言うべきだろう。

 仕事を覚え始めたばかりの小僧に、話に聞く異民族の襲撃を想像し、察知しろというのも無理な話。

 終わり際にどうにか先輩へ相談はしてみたが、彼ほどに遠くの見えない誰もが見間違いではないかとも言っていた。

 結果、非番の隊長が昼前に顔を出し、話を聞いて念の為にと確認させたことでようやくあの人影が伝令であったことが知れたのだ。


 極度の疲労でまともに会話の出来ない状態になっていた男は、筆談を求める隊長にも首を振り、僅かな塩と水を舐め、絞り出すように砦の名を口にした。

 そうして最後に、妻と子を頼むと、言い残して息絶えた。


 あの日、もっと早く伝えていれば彼は助かっただろうか。


 何度も後悔し、神経質に東の地を睨み付けて、心身ともに疲れ果てては酒に溺れた。

 彼の家族がどうなったのかも知らない。

 内地の人間にとって、外地は異国よりも遠い場所だ。

 派遣された騎士団が異民族を追い返したとは聞かされたが、被害状況など報告されることはない。そもそも、調べてすらいないだろう。

 だからと様子を見に行こうとも、間には補給の出来ない広大な丘陵地帯が広がっていて、仕事の合間に行けるような場所でもなかった。


 もう二度と、見逃したりはしない。


 昔の様に胸壁へ齧り付くようなことはしないが、どんな些細なことも報告し、相談し、最後には確認させてきた。

 いつしか巨壁の、見張りを行う班の統括者となっていた青年は、書類仕事の隙間を見付けては自身でも壁に登り続けていた。


 さて、そろそろ終わりの時間にもなるし、皆に酒でも驕ってやるかと考えていた時だ。


 遠く、五つ向こうの丘上で何かが動いた。


 緩んでいた意識が一気に覚醒する。

 その丘の更に向こうには、時折壁を眺めに来る外地の子どもらが二つ丘と呼んでいる休憩場所がある。

 やや低地の広大な荒地に築いたという砦から来る者達は、そこで十分な安息を取って、折り返し地点となる丘を登るのだ。


 だから最初は、冬の終わりに気の強い少年らがやってきたのかと疑った。

 けれど、動かない。

 丘の上で伏したまま、下り始める様子が無かった。


 彼の脳裏に七年前の景色が思い浮かぶ。

 決断は早かった。


「鐘を鳴らせ!! 東砦の方向に人影あり!! すぐに確認の部隊を送り、騎士団の詰め所にも伝令を!!」


 考え過ぎだとは思わなかった。

 丘の上、倒れ伏した人影が、それでも尚腕尽くで前へ進もうとするのを、彼の目は捉えていた。


    ※   ※   ※


 城壁が破られ、第一の郭へ異民族らが雪崩れ込んで来た砦の奥から、二人の騎士が門を潜って現れた。

 第二の郭へ続く鉄扉はすぐに閉められてしまったが、居並ぶ二騎に動揺はない。


「あ゛あ゛あ゛~ったくよお! 下手な契約なんぞするもんじゃねえぞ全くよお!!」

「貴様の事は気に食わんが、今回ばかりは同意しよう」


「あ゛ァ!? 俺の真似っ子してんじゃねえよ!! こちとら戦が始まってるってのに、許可無く力使うな、なんつー契約書のせいで戦えなかったから苛々してんだ!! まず最初にテメエの首吹っ飛ばしやろうか!?」

「はぁ……こういう血の気ばかりな馬鹿が居るから、ベレフェス卿も精霊を基にした契約なんぞ考えたんだろう。砦の生活基盤である村民をやおら消費されるのも困りものだろうしな」


 共に馬蹄を鳴らし、悠々と坂道を降りてくる。

 攻め込んだ異民族らと言えば、砦攻めに際して全員が下馬していた。


 突如として現れた騎士らしき者達に怖じけた様子を見せたものの、たった二人と見て唇を舐める。

 まともな戦闘らしい戦闘が出来ていなかっただけに、特に若者は意気揚々と彼らへ近寄って行った。


「おうおうおう大歓迎じゃねえか! 嬉しくなっちまうねえ……思い上がったクソガキ共を涙と糞でぼろぼろにしてやるのは好きだぜ俺ァよお!!」

「趣味の悪い事だ。だが、異民族らの中には異端も紛れ込んでいるとも聞く。とりあえず皆殺しにしておいて問題ないだろう」


 方や煉獄を、方や氷獄を。

 嘶く馬と共に滾らせた魔力で周囲を圧していく。

 騎士が、何故に騎士と呼ばれるか。

 名誉の位とされるようになって久しいが、本来は騎乗する者としての名、兵科の一つとして呼ばれていたものだ。

 そうして騎士と共に戦う騎馬もまた尋常なる存在ではない。


「今までの礼をくれてやるよ!!」

「聖罰を受けるがいい」


 意気込んだ二騎が坂を下り始めた直後の出来事だった。

 第一、第二の郭を隔てる城壁を飛び越え、深紅の騎馬に跨ったもう一人の騎士が敵のど真ん中へと降り立ったのだ。

 甲冑に身を包み、騎馬もまた完全武装で、大槍を手にするその騎士は、羽飾りを揺らしながら坂の上の二人を見やる。


「なんだ、鼻息荒く出ていったかと思ったら、まだ一人も始末していないとはな。これでは殲滅するのに日が暮れてしまうな」


 女の声だった。

 頭部を覆う兜で素顔は見て取れないが、若く、けれど力強さのある声が周囲へ響き渡る。


「よく聞くがいい蛮族共!! ここは騎士の国! 我が同胞の住まう土地だ! 血に飢えたケダモノに謝れ罪を償えなどとは求めんよ。ただぶちまけて死ね……!! 死こそがキサマらに残された運命よ!! さあ行くぞ!!」


 紫電が轟く。

 落ちた稲妻をその槍へ宿し、騎士は立ちはだかる全てを打ち払いながら突撃を始めた。


    ※   ※   ※


 戦場がゆっくりと変化していく。

 一方的だった戦いに押し引きが生まれ、間隙を突いて一部の軍団が瓦解する。

 それは決して優勢なだけではなかったが、押し切られて入り込まれた城門内から敵を一掃するだけの余裕は生まれた。

 また各自が持ち場それぞれの判断を優先していた砦の兵士達も、本来の主から発せられた命令によって強固な連携を取り戻しつつあった。


 遠く、暗い闇の向こうで起きていく変化を感じ取りながら、レイナは赤ん坊を抱きかかえながら彼の前に立った。


「お爺様」

「……心配掛けたね、レイナ」

「お身体は無事なのですか」

「少々してやられたが、なぁに、まだまだ寝たきりの老人にはならんよ」


 敵の工作員によって奇襲を受け、負傷から意識を失っていたガーラルドが目を覚ました。

 話によると、目覚めた第一声が「戦況は」だったと言うのだから呆れてしまう。

 きっと夢の中でも戦っていたに違いない。


「騎士の方々が自由に戦えるようになったのであれば、後は任せて休んでいた方が良いのではありませんか?」


 状況が好転したのもあって、各所で復旧の作業が進められている。

 滞っていた糧食も、身動きを封じられていた村民らが率先して手伝ってくれているから、じきに行き渡ることだろう。

 だが、歴戦を思わせる傷の残る顔で、ガーラルドは首を振る。


「敵にもまた強者は居る。追い出すことは出来ても、追い払うには至らんだろう。まだまだ籠城戦は続く。後は、連絡の途絶えている狼煙台をどうにかせねば」

「だったら、きっと大丈夫ですわ」


 重く、砂塵で洗い流したような声で諭すガーラルドに、レイナはいつになく晴れ晴れとした様子で応じた。

 普段は見えないのだから開いているだけ無駄と、むしろ恥ずかしがってもいた紫紺の瞳を晒しながら。


「もうじき、援軍は来ます」


 聞こえたから。

 誰に否定されようと、常に暗闇を見詰めている彼女は光の強さを『眩しい』を知っている。

 それに導かれて辿り着けた、一つの成果を抱きかかえ、身を揺すって鼻歌を口ずさむ。


 歌は、風に溶けて東へ流れていった。


    ※   ※   ※


 古龍の力は、否、ジーン=ガルドは恐怖を扱うのに長けている。

 戦場では優れた戦力を持つ方が勝つのではない。

 恐怖を支配し、相手に負けたと思わせた方が勝つのだ。


 そういう意味で、単独で大軍を相手にするというのはそこまで難しくない。あくまで、ジーンの感想ではあるのだが。


 恐怖には幾つもの種類があり、人それぞれに何に耐えられて、何に耐えられないかが微妙に異なる。だが、集団の一定数に対して共通で通用する恐怖というのはあるもので、彼は徹底してそこを煽り、大立ち回りを演じていた。


 とはいえ、所詮は単騎。


 恐怖を切り分け、冷静に戦場を見据えられる者はどこにでも居る。

 まして他国を、彼らからすれば国という概念すらあやふやであろうが、侵略を是とする高原の遊牧民族であれば、戦の勘所を備えた者は両手の数では足りないだろう。

 勝てぬのならば戦わなければいい。

 化け物じみた強さで大軍を呑み込むジーンも、広大な土地に広がる敵全てを殲滅するなど不可能だ。

 周到に、狡猾に、速力で勝る筈のジーンを騎馬隊で翻弄しつつ、砦への援軍を派遣し始めていた。


 瞬間的な加速はあっても、継続的に速い速度で移動を続けられなければ軍団を相手取るなど不可能だ。

 必要なのは、速力だった。


「…………もういいのか」


 紫電で接近する騎馬隊を打ち払うが、敵の魔法がそれを逸らし、降り注ぐ矢を防いでいる間に射程外へ逃げられた。

 どうにも射程や癖を見抜かれ始めているらしい。


 そんな彼の元へ、指示が無くとも辿り着いたのは黒毛の騎馬だ。


 敵からの奇襲を受け、ゼルヴィア達を守れと行かせた先で、仕事を果たして倒れ伏していた黒馬。

 傷を受け、立っていることも出来ず倒れていたが、尋常の生物ではない軍馬は、殊にジーン=ガルドの戦闘について来れるだけの適正と訓練を重ねたその名馬は、死にかけとも言える状態から数日で回復し、主の元までやってきた。


 普段はどこかぼんやりした所のある黒馬も、一度殺されかかったとあって目が覚めているらしい。


「そうか。ならば、ここからは一緒に戦ってもらうぞ」


 嘶きを得て、馬へ跨るジーン。

 騎乗した騎士の国の戦士を前に、その怖さを知る異民族らの軍勢が怖気たのを彼は感じ取った。


 足元から巻き上がった黒い風が高原へ吹き荒ぶ。


「……さて、残された時間はあまり無いらしい。小娘から馬鹿にされたくなければ、お前も存分に力を発揮して見せろ」


 西の地から、馬蹄の音が連なり、迫ってきていた。

 普段ならば後を任せて引き下がる所だが、クソ生意気な発言はまだ耳の内に残っている。

 故に危機感を覚え始めた異民族らには憐れなことに、ジーン=ガルドが酷薄に嗤って敵へ愛馬を奔らせた。


 西方、砦の内より、歓声が上がったのを聞いた気がした。

 何故か、ささやかな歌声と共に。







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