第16話

 砦に降りた霜が溶け、朝方の寒さを忘れそうになる昼下がり。

 どこかぼやけた陽の光を浴びながら、レイナ=ベレフェスは待ち侘びていた。


 毎年、冬篭りになるとアルはずっとレイナの部屋で過ごす。

 平時なら車椅子で動き回っていても問題無いが、関係の薄い遠方の村民らも混じる冬の間は、彼女の性格もあっていざこざが起きてしまう。

 ここぞとばかりに詰め込まれる教育も、アルと一緒であれば楽しんでいられた。

 だから今年も同じように楽しく過ごせるものと思っていたのだが、彼女に出来たという秘密のお仕事で目論見は大きく外れてしまった。


 定められた範囲での授業には来てくれる。

 けれど、その他と言えば、ザンという彼女を可愛がっている近所のお爺さんの元で何かをしているらしい。


 アルに出来た新しいお仕事だ。

 砦主の慈悲などと揶揄される読み聞かせではなく、彼女だからこそと頼まれたものであるらしい。


 邪魔はしたくなかった。


 我慢しようと決めた。


 それでも、待ち侘びてしまう。


 未だ授業を受け続けるだけで、何一つ仕事の出来ていないレイナはアルが遠くに行ってしまったようにも思えるのだ。

 不具の娘は不具を産む。

 かつて教師の一人が酔った顔で漏らした一言は、レイナの弱い所を正確に射貫いていた。

 砦を納める貴族の娘として、彼女が負うべき責任とは結婚することだ。

 まして父は死に、他に世継ぎは居ない。

 嫁入りである母では血が絶えることになる為、祖父はどうしてもレイナに婿をと画策しているのだ。

 過剰なほどの教育も、目が見えないという事実を曇らせる為のものだと彼女も理解している。

 それでも十を越え、未だに婚約者は見付からない。

 遠縁から養子を引っ張ってこようにも、外地というだけで内地の者は毛嫌いする。


 義務を果たせないまま、ただ適齢期を過ぎ、お荷物となって留まり続ける未来。


 せめて恩を返したい。

 目の見えない自分を育ててくれた両親に、どうにかしようと足掻いてくれている祖父に、報いることが出来れば。


 そんな彼女にとって、同じく不具を抱えるアルの存在はとても大きかった。

 アルと居れば安心していられる。

 無茶を言われることも、それでちょっとした怪我をするのも楽しかった。

 何かが出来ると思えた。


 そのアルが、今や仕事を見付けて冬篭りの間も働き続けている。


「あれ? おーい、レイナーっ」


 坂道を登って彼女が来た。

 僅かに淀んだ気分は、その力強い声で呆気無く掻き消えた。


    ※   ※   ※


 「それじゃあね。次は五日後かな? 他の先生と相談してから帰るよ」


 授業が終わり、いつものじゃれ合いを経て、アルは車椅子を押して部屋を出た。

 言葉通り、一階に詰めている教師団の統括役へ話をしに行くのだろう。


「うん。またね」


 開いた扉からは寒い風が吹き込んできて、レイナの足元を冷やした。


「はぁ……」


 ついため息を漏らしてから、記憶を頼りにソファへ向かう。

 次の授業は何だったか。

 他に誰も居ない部屋の中で、盲目の少女は想像をする。


 学んで、学んで、知識と技術を蓄えて、けれど一度たりとも使う機会を得られないまま死んでいく。

 それはもう恐怖を越えて無気力感を覚えるものだった。


 あぁ、と思い出す。


 次は礼儀作法の授業だ。

 アルが残らず去って行ったのも納得だった。

 内地からやってきた教師の中でも、彼女は外地の人間を殊更に嫌っている。

 レイナも外地の人間に変わりないが、騎士の娘という立ち位置がある。

 だから納得はしているのだと思う。

 目の見えないレイナの前に鏡を置いて、まっすぐ歩け、杖を使うな、と。クロスの上に置かれた食器類を一つでも倒したら鞭が飛んでくる。彼女がやっているのは、内地で行っていた目が見える者に対する礼儀作法の教え方だ。

 何一つ盲目であることは考慮されない。

 彼女にあるのは、レイナがどこかで失態を犯す度に教師として名を挙げられるという恐怖だけなのだろう。

 一度アルが猛抗議をしたことがある。

 しかし教師団は互いの授業には口出しをしない。

 様々な事情を抱えて外地へとやってきた者達だ、根本的に協調性など皆無なのだろう。

 話し合って問題を解決していけるのなら、こんな所にやってきたりはしない。

 抗議を受けたことでアルを毛嫌いするようになった彼女は、砦内で姿を見かける度に文句を言う。

 しかも授業中に言い始めるものだから、気分を害したレイナが嗜める言葉を贈っただけで目上の者に対する不敬だ、これは授業なのだから、と鞭を打ってくる。


 おかげで不快な言動を聞き流すことは覚えたが、不快であることは変わらない。


 ため息をついた。


 冬篭りの前にあった警報からしばらく、レイナには従士見習いの警護が付いていた。今は訓練や任務などで外されているが、そこで彼ら村民らが随分と彼女のことを神聖視していることに気付かされた。


 確かに、言葉遣いから振舞いから、厳しく躾けられている。

 見えはしないが、動く気配は多少なりとも感じ取れるもので、彼らは総じて賑やかだ。


 そんな、彼らが憧れて見ている女の内心がこんなにも鬱屈しているなど、誰に想像出来るだろうか。


 レイナは沈黙する。


 元より目が見えないから、自発的に動くということをしてこなかった。

 例外はアルと居る時だ。

 彼女の持つ『眩しさ』は、レイナの中にある暗い部分を綺麗に晴らしてくれる。彼女が見ていてくれるのなら、転んだって怖くなかった。

 自分と、それ以外の何かの場所が分かるというのは、とても安心出来るものだった。


「……」


 つい上向きかけた気分を自分で落ち着ける。

 礼儀作法の授業では感情の起伏を見せるだけで鞭を入れられる。

 どうせ気分の悪い内容なのだから、幸福な想像を持ち込んで穢されたくも無かった。


 扉が開く。

 吹き込んで来た風は、不思議と冷たさを感じなかった。


「ん? あのガキは居ないのか」

「え……?」


 声に覚えがある。

 たしか、アルと一緒に居た。

 けれど最近では慣れない人と接する機会が増え過ぎて、咄嗟に誰かが特定できない。


「あ、あの」


 見張りは居る筈だ。

 幼い頃から接している彼が通したのなら、悪い人ではない筈だが。


「あぁ、目が見えないんだったな。ジーン=ガルド。あのクソ喧しい小娘に、会議の合間に護身を教えてやっている従士だ」


 あんまりな物言いについ笑ってしまった。

 何故だろう。

 アルへの揶揄はいつでも不愉快なのに。


 彼が言葉通りの意味に喋っていないからか。


 思い返せば、最初に短剣を投げる授業をしていた時も、この人物はアルを悪く言わなかった。

 騎士になりたいと言う彼女が選べる、現実的な手段を考慮して、不器用ながらもしっかり教えてくれていた気がする。


「あぁ、すみません。アルは多分、教師団統括役の所だと思いますよ」

「そうか。ふむ」


 すぐに出ていくかと思った男は、何故か思案しながら部屋の中へ入ってくる。


「あの……」


 この後授業があるのですが、と言おうとしたが、印象はともあれ面識の薄い相手へ気軽に文句を言えるほどレイナの神経は太くない。


「居ないのなら仕方ないな。それに、この部屋は随分と暖かい」

「えっと」


 何を言っているのだろうか。

 目的のアルは統括役の所か、最悪追いかければ砦内で捕まえられるというのに。

 ジーンと名乗った男は足音を響かせながら部屋へ踏み入り、ぐるりと室内を確認して回った。


「お前は、知らん奴が居ると安眠出来ない口か」


 突然の質問に意味が分からず首を傾げる。


「まあ寝る時間でもないだろうしな。この時間なら授業か? 邪魔はせんから、この裏手で少し休ませてくれ。眠い」


 そうして返答も聞かず寝台の影へ腰を下ろし、横になってしまった。

 程無くして聞こえてくる寝息に、本気で眠ってしまったのかと心配になる。


 と、ここで気付いた。


 以前彼が来た時は、足音一つ立てずに居た筈だ。

 急に声がしてひどく驚いたのを思い出す。

 なのに今、彼は分かり易いほどに足音を立てて、レイナの居るソファを大きく迂回しながら奥へと向かった。

 寝台の裏手、とはっきり認識出来るほどに、彼は居場所を教えてくれていたのだ。


 やっぱり、言葉通りの人ではない。

 思いつつも、だからといって砦主の娘の部屋で、教師の仕事をサボって居眠りするのはどうなんだろうか、と困惑せずには居られなかった。


    ※   ※   ※


 甲高い声と共に手の甲を鞭で打たれ、思わず悲鳴を上げそうになる。

 一度や二度ならともかく、この礼儀作法の教師は何度も叩いてくるのだ。

 幸いにも一日もすれば腫れも引くが、痛い事に変わりはない。


「どぉおして出来ないのですか!! この程度ワタクシは五歳の時に覚えていましたよ!! いつまで経っても成長のない!!」


 癇癪じみた言葉に心は動かなかったが、沈めて出来た隙間には淀みが溜まっていく。


 彼女がしているのは、レイナへの教育ではなく八つ当たりだ。

 内地で爵位を取り上げられた彼女は、騎士とはいえ貴族を下に扱うことで自分を慰めている。

 黙って従っていればいずれ終わる。

 問題なのは、現実的な手段で彼女が見ている礼儀作法を習得することだ。

 授業内容がどのようなものであれ、いずれ必要になる技術。

 

 忙しく方々を飛び回っている祖父に迷惑を掛けたくなかった。

 父が死んでから、不具の娘をたった一人抱えることになった母も頼れない。いつも所在なく沈黙している彼女にこれ以上の負担は。


「全く!! これではワタクシが無能なようではありませんか!! 目が見えない程度の事で甘えるのではなくッ、もっと厳しく自分を律しなければ婿など来てくれませんよ!!」


 痛い所を突かれ、つい眉を潜めたレイナに女はにんまりと笑みを浮かべた。


「おやおやおや、随分と反抗的な表情ですねえ。授業中、ワタクシ達教師は貴方の上位に当たる者と思いなさい。御祖父様の言い付けも守れないだなんてッ、全くなんて親不孝な子なんでしょうか!? それでは――――」


「そのサイチョウみたいな声を止めろ、不愉快だ」


「ひぎゃぁああ!?」


 突如として発せられた低い声に、誰かが居るとは思っていなかったのだろう教師がひっくり返った。


「おっと。今の悲鳴はなんだ? 宮廷でもキサマは同じように叫ぶつもりか? 脚を晒してすっ転ぶとは、五歳のガキでもやらないような粗相だな」


 寝台の裏より起き上がったジーン=ガルドが足音を立てて歩み寄ってくる。


「それとも何か? キサマはあの宮廷が、躾けのなっていない獣の集まる場所だと訴えてくれているのか。なるほど、馬鹿の一つ覚えのように決まった指導を繰り返すような無能にはそう見えるらしいな」

「な、何者ですか!? ここをどこだと思って!」

「あぁ喧しいから口を閉じろサイチョウ女。寝起きに聞いて許してやれる声じゃない」


 ジーン=ガルドはレイナを見た。

 はっきりと、そういう視線を感じた。


「あのジジイの所構わずさはこういう所では問題だな。動き回っていると全てを上手く動かせていると思い込むのは、行動派の厄介な所だ」

「ジ、ジジ……主様になんという呼び方を!!」

「うん? 俺はジジイと言っただけだが。どうやらキサマの宮廷では主に対して随分と身勝手な礼儀作法がまかり通るらしいな」

「誤魔化しても無駄です!! 貴ァ方の顔は覚えましたからねッ!! すぐにでも砦を追い出してやります!!」


 大きなため息が聞こえて、彼はまた何かを言おうとしたが、矢継ぎ早に発せられる汚い罵倒に呆れが勝ったらしい。

 相手が言い返さないことに気を良くしたらしい教師が益々増長した言葉を吐き捨てる。

 聞くに堪えない醜さだった。

 最早レイナも表情を取り繕うことさえ出来ずに女の言葉に眉を潜めていた。


 だからか。

 不意に部屋の中が『暗く』なった気がした。


「キサマのような者に不具を抱える者へ配慮しろとは言わん。お為ごかしの気遣いほど薄ら寒いものは無いからな。それにこの痩せた土地では尚更、欠点として扱われることも分からんでもない。だが、手前勝手な方法を押し付けて、失敗する教え子を一方的に罵倒する者を教師とは呼ばん。出ていくのはキサマだ」


「まぁーーあっ!! 長年ベレフェス家に仕えてきたワタクシを追い出そうだなんて!! やれるものならやってみなさいな!!」


「あぁ、簡単な話だ。


 鈍感故か彼の暗さに気付かなかった女も、ここへ来てようやく理解した。

 本気だ。

 もし三日目の晩に彼女がこの砦で眠りについたなら、決して目覚めることは無いのだろう。


 問答無用の暴力に調子付いていた女が絶句している。


「この地で生きていて、こんな簡単な方法も知らなかったのか? いつだって暴力が全てを押し流す。お前が持っていた仮初の権力も似たようなものだ、卑怯とは言うまいな」


 相手を押し潰さんばかりの威圧感にレイナまでも息苦しさを覚えた。

 正面から受けていた彼女ならば、それは耐え難いほどの苦痛だったのだろう。


 女は不格好な悲鳴を上げて部屋を飛び出し、逃げていった。

 扉を開けた時に脚がもつれて転倒した為、這い蹲って、レイナのからも永久に消えたのだった。


    ※   ※   ※


 コップに注がれた冷たい井戸水を差し出して、レイナはそっと身を引いた。


「どうぞ」

「あぁ」


 素っ気も無い返答にややも緊張しながら、彼女が自分のコップを傾けて喉を潤した。

 冷えた水が身体を急激に縮こまらせていく。

 礼儀作法の授業が辛いものであると、見張りの男は知っている。

 だから、授業終わりにはいつも冷えた井戸水を汲んできてくれるのだ。

 冬場で飲むには冷た過ぎるのだが、あのような授業後では気遣いこそが嬉しい。


「余計な口出しをした」


 それが彼なりの謝罪であるとやや遅れて気付く。


「いえ。すかっとしました」

「っは!!」


 ついアルと居る時の様に言うと、ジーンは小気味良く笑ってみせた。


「しかし、また教師を見付けるのも大変だろう。俺はその手の事に向いていないし、ゼルも人を引っ張って来れるほどじゃないからな……」


 どうやら彼は後悔しているらしい。

 あの恐ろしい気配には怖気づいたレイナだが、大人の人が見せる弱った姿というのは新鮮だった。


 ジーンは、少なくともレイナの前では、自分の様子を隠さない。


 そう思わされているだけかもしれないが、アルにも似た分かり易さで示してくれるから、あまり不安を覚えないのだ。


「あの……」


 けれど、一応は確認しておこうと思った。


「先生が三日後に残っていたら、本当に殺してしまうのですか……?」


 冬篭りの真っ最中で、異民族への警戒が強まる状態で起きる砦上層部の死は、少なからず混乱を巻き起こすだろう。突然荷物を纏めて出ていく、という方向でも同様だ。

 彼には成算があるのかも知れないが、本当に殺されたと聞いたら後悔してしまいそうだった。


「……あぁ、どうだろうな」

「……え?」

「殺意というのはその場限りのものだ。恨みや仇となれば別だが、終わった後でまで振りかざすのは面倒でな」

「面倒……」


 あまりにも予想外な言い回しにただ言葉を返すので精一杯だった。

 そして、


「だから、と言いたい訳じゃないが、お前のように内へ溜め込むのはどうかとは思うな。あのガキのように何でも発散すれば良いという話でもないが、お前のは淀み過ぎている」


 続いた言葉にレイナは隠していたものを正確に射貫かれ、なにも言えなくなる。


「不具を抱えて生きるのは辛いか」


 だからか、その言葉には猛烈な反発を覚えた。

 助けてくれたと思ったのに、彼まで揶揄するようなことを言うのか。


「まあ、そうだろうな」


 返事も聞かず勝手に納得して、小さな沈黙が落ちる。

 彼がコップを置いた。

 中身が随分と残っている音がする。


「仮に目が見えるようになったとしても、お前の中に根差した不具は生涯消えるものじゃない。歪んだ性根を抱えたまま、健全を名乗る連中に媚びを売って生きるしかない」


 何故だろうか。

 レイナには彼が続けようとした言葉が分かった気がした。


 諦めを口にして、なのに心を残すのは、『眩しい』を知っているからだ。


「喋り過ぎたな。まあ、後生大事に育てられているんだ、その内良い縁が見付かるかも――――」

「思ってもないことを、言わなくてもいいですよ」


 当たり前に皮肉が突いて出た。

 他の誰にも、アルにも見せたことの無い、醜い自分の内心。

 それを曝け出したことがとても痛快だった。

 あまりに幼稚で些細な犯行だったが、あの恐ろしい気配を漂わせることの出来るジーンを驚かせることには成功したらしい。


「全くガキってのは」

「あら、負け惜しみですか?」


「言い換える。女ってのは」


「ふふふ」


 何かが変わった訳ではない。

 殺意がその場限りと言ったように、あの教師が平然と居座ってくる可能性もある。

 けれど、今度酷い事を言って来たら、彼の様な皮肉を叩きつけてやろうかと、そんなことを思った。


「ところで、話していたサイチョウというのは何なのですか?」


「うん? ここからずっと南方に生息している、馬鹿みたいにデカい鳥だ。甲高い声で鳴くから、一度聞いてから忘れられなくてな」


 昼寝の邪魔だった、などと付け加えるから、また笑みを溢し、もうしばらく会話が続けられるようレイナは質問を繰り返した。

 欠伸を噛み殺しながら、彼はそれに応じてくれた。





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