第7話


 「最近、楽しそうですね」

 妙に畏まった口調で言うレイナに、アルは受け取った本を手に首を傾げた。

 砦の奥、第三の郭にある居館の一室で、車椅子の少女は盲目の少女に本の読み聞かせをする。

 方や騎士の娘で、方や農民の娘。

 過去アルの父親が残した功績によって目に留まり、様々な経緯の後に名目上の教師などという位置に収まったのがアルだ。


 今や彼女の脚として使用されている車椅子も、元はレイナの為に作られたもの。

 目が見えない為に歩くのも覚束無かった彼女だが、そもそも脚の動かない少女の事を知り、自らそれを与えると決めた。

 以来、歳が近かったのもあり、二人はとても仲の良い友人としての関係を続けてきた。

 アルが本の読み聞かせなどという仕事を貰っているのも、そもそも農民の子が文字を読めるようになったのも、この友情の延長線上にある。


 なのでレイナはちょっと拗ねていた。


 読み聞かせの授業は十日に一度ほどで、他の授業が詰まっていれば消えてしまうし、空けば穴埋めで入ることもある、とても不安定なものだ。けれどアルは畑仕事の手伝いなどで忙しくなる時期以外は頻繁に砦を訪れる。そんな彼女へ覚えた授業内容を披露したり、一緒に遊んだりするのがレイナにとっての楽しみであった訳だが、どうにも最近は興味が他所へ向いてしまっているのだ。


 つーん、と瞼を閉じたままそっぽを向く。

 頬が少しだけ膨らんで、けれど自分でやっていて恥ずかしくなったのかすぐ萎んでしまった。

 代わりに薄く色づく様を見てからようやくアルも自分の行動を思い返した。


「もー、しょーがないなーっ」


 お姉さんぶった笑みを浮かべて車椅子を滑らせ、すぐ隣へ並ぶ。


「つんつん」


 そうして最近兄にやられた頬ツンをしてみると、レイナは照れながらも頬を再び膨らませてきた。

 ふっくらほっぺを一摘まみしてから片手間で本を広げ、音読を始める。


「あーっ、ちゃんと聞くから、最初から読んでー」

「はぁーい」


 とりあえず今日はレイナと居よう、アルはそう思ったのだった。


    ※   ※   ※


 で、だ。

 夏の日差しを忘れそうになる曇り空の下、寒風が混じるようになった砦の裏手でレイナは穴を掘っていた。

 手にしているのは木製のスコップ。

 畑仕事に使う鍬を、全体が真っ直ぐになるよう付け替えただけの造りで、一応は刃の部分に鉄製の金具が取り付けられている。


 やや離れた位置ではいつもレイナの部屋の扉を見張っている中年の兵士が物言わず立っていて、高原付近での石拾いを終えたらしい従士見習いの少年らが荷車を引いて砦へ続く道を進んでいくのが見えた。


「ねー、やっぱり私もやるよー」


 車椅子でやや前のめり気味に穴を覗き込んだアルが言う。


「駄目よ。危ないからアルはちゃんと掘れてるか見てくれないとっ」


 服の裾を結んで膝下までを晒しつつ、鼻の頭を土で汚したレイナが生き生きと言い放つ。


「でもレイナへたっぴだし」

「うーん……だって難しいんだもの」


 事はいつも通りの授業後、アルの突飛な思い付きから始まった。

 昔から騎士になると言って憚らない彼女は、どうにかして功績を挙げようと策を巡らせてきた。


 大抵は突飛過ぎて実現に至らないが、今回の案は落とし穴。


 実用性はともかくとして、掘るだけならそう難しくない。

 難しくない、と思って始めたのだが、コレがそう簡単にはいかなかった。


「あっ、レイナまた石が噛んでるよ」

「え? 今の所?」

「そうっ。大きいよー」

「はぁーい」


 しゃがんで掴み上げようとするが、両手で掬い上げるほどにもなる石の大半はまだ地中に埋まっている。


「幾らか周り掘らないと駄目じゃないかなー?」

「そう、ね」


 手で触れて、何処に石があるのかを確かめてから、スコップで慎重に周りを掘り返して露出させていく。

 何度も、何度も確認した。

 鉄製の刃が付いているとはいえ、力任せに扱えば欠けてしまう。

 ザンへ頼めば二つ返事でやってくれるだろうが、周囲に迷惑をかけることが二人の目的ではないのだ。

 だから慎重に、目の見える者であれば簡単に終わっただろう作業にたっぷり時間を掛けて、ようやくレイナは石を掘り出した。


「取れたわぁっ」

「おー」


 未だ脛ほどにも掘り返せていない穴の中、宝物を見付けたみたいに埋まっていた石を持ち上げる。

 手も裾も、服の各所もすっかり汚れてしまっていたが、文句を言う者はここには居ない。


「レイナー、こっちこっち。ここ投げて」


 脇にある小型の荷車を手で叩いてやると、彼女は正確にそこを捉えた。


「いくわよーっ、離れてねっ」

「いいよー」

「えいっ」


 結構な音がしてまた揃って身を跳ねさせるが、続いたのは互いの反応を察した笑いだった。


「よしっ」


 息を切らせてスコップを構え、土を掘り返して片側へ積み上げる。

 石に詰まれば時間を掛けて取り除き、また掘り返してを繰り返していく。

 途中、見ているだけに飽きたアルが離れ、戻ってきた時にはむしり取ってきたらしい枝と葉を大量に膝の上に乗せてきた。ここに置くねという言葉と尋ねる声が被り、放り投げられた土をアルが被るという事態はあったものの、概ね順調に事は進んだ。最後にはレイナのお腹辺りにまで穴を深くし、底にはアルが削った木の枝を数本植えて殺傷力を高めた。目の見えないレイナがその穴から脱出する際に、流石に危険があると見張りの兵士が手を貸して、再び後ろへ引っ込んでいく。

 格子状に重ねた木の枝に大きめの葉を乗せて、強度を確認しつつ掘り返した土を被せて完成だ。


「できたーっ」

「やったーっ」


 手を合わせて喜ぶ少女二人に、兵士は微笑まし気に頷いている。

 見た目にはあからさま。

 砦は丘の上にある為、裏手はややキツめの断崖だ。

 普通はこんな方向からは攻め寄せない。

 だから誰の邪魔にもならないのだが、だからこそ黙認もされる。


 実用的な成果と言えば掘り出した石だろうか。


 石は良い武器になる。

 投げるだけならば立て籠もった村民らにも出来るからだ。

 今も砦の城壁付近には大量の石が詰まれ、異民族の襲来に備えているのだが、僅かながらも彼女らはそこに貢献したと言えなくも無かった。


「一個二個じゃきっと引っ掛からないから、もっと一杯作らなきゃ駄目だよね」

「うんっ、がんばるわっ!」


 ぐっと両手を握って意気込むレイナ。

 その瞳が開いていれば、ついでに服がアルのような粗末なもので、訓練されたお上品な口調や振舞いが無かったりすれば……などと称すればあまりに違うものの、少なくとも元気なただの子どもとして見られる程度には騎士の娘はお転婆だった。


「もっと枝とか取ってくるね」

「分かったわっ、頑張りましょう!」


 幼い頃から二人を見てきた見張りの兵士が、目頭を抑え、人知れず鼻を啜った。


    ※   ※   ※


 レイナ=ベレフェスは『眩しい』を知らなかった。

 それが強い光によるもので、時に熱を伴い、直視することも出来ないこともあるらしいとは察していたが、暗闇の中しか知らない彼女にとっては生涯縁の無いものなのだとしか考えてこなかった。


 物心付く前に何をと思うかもしれないが、七年前の襲撃以前、本当に彼女は外界への興味を無くして人形の様に生きているだけだった。


 三つ四つと言えば見えるもの全てに興味を持って、怖れ知らずに突撃しては笑ったり、怪我をして泣いたりする頃合いだ。

 けれどレイナは動き回ることの怖さを早々に学んでしまってからは何もしないことを覚えた。

 一度大きな怪我をしてしまい、周囲もそれを推奨した。

 ちゃんと言葉を聞いてやれば、あやし、慈しむ言葉の大半が心配に基づくものだとも分かった。


 危ないよ。

 無理はしないでね。

 大丈夫、そのままで。

 じっとしていなさい。


 機微のどこまでを理解していたかは別として、自分が何もしないことを望まれていることは分かったから、また自身でも怪我の衝撃が大きくて怖かったから、朝から晩まで言われるままに座り続け、手を引かれて初めて動く、そんな子どもに成り果てていた。

 まして異民族の襲撃を受け、砦の中に顔も分からない無数の人々が詰め込まれている状態ともなれば、レイナは置物の様にじっと座り続けるだけだ。

 手の掛からない、都合の良い子どもだったことだろう。


『あーっ、見えない!! 私にも見せてよおっ!! ねーえー!!』


 強烈な自己主張が部屋の外から聞こえてきたのを覚えている。


『ねええ!! もおおお! ラウロのバーカ! あーほっ! 私にもきし様見せてよお!! ねえ誰かー! ねー!!』


 おそらく、援軍が駆け付けた時のことだったと後にレイナは思う。

 ざわざわと蠢くような気配の中で、甲高い少女の声が異様に彼女の元へ届いた。


『馬鹿ぁあああ!! 見せろおおお!!』


 子どもの癇癪といえばそうで、けれど無視したくても出来ない煩さと、いつまで経っても諦めない様に流石のレイナも行動を起こした。

 付いてくる顔の見えない見張りを感じたまま車椅子を滑らせて、杖で周囲を探りながら進んでいく。

 不思議と少女の居場所だけははっきりと分かった。


 灯台のようだ、と先日読んだ本の表現を思い出す。


『そんなにうるさくしてると怒られるわよ』

『だって立てないんだもん!!』


 大人の言うことを聞く、それだけが生き方だったレイナは少女を諭したつもりだった。

 彼女なりに籠城の日々は辛く、また煩さに苛立った面も幾らかはあったかもしれない。

 なのにこの言い分だ。


『アンタなんでそんな変なのにすわってるの』

『え……変?』

『なにそれ』

『く、車椅子だよ。私、目が見えないから、危ないって皆が』

『よく分かんないけど立てるのにすわってるだけなのって、なまけものって言うんじゃない?』


 少女からすれば覚えたての言葉を使ってみただけに過ぎなかったのだが、レイナにとってはかなりの衝撃だった。

 だって、と。

 大人は皆してこうしていろと言う。

 危ないから、心配だから、不安になるから、じっとしているのが正解なのだ。


 それを、ただの怠け者と評されるなんて。


 しかも目が見えないレイナは、見えるということが分からない。

 見える者から見た正常な見た目とはどのようなものか、今の自分がその正常な格好をしているのかが分からないから、判断は常に身近な見える者に委ねてきた。だから、この左右に車輪の付いた椅子が変であると言われて、沸き上がった不安を掻き消すように勢いよく言葉を放った。


『わ、私だって立つくらい出来るわよっ』

『あっそ』


 カッとなった。

 溜め込んだ何かが熱を以って暴れ出し、レイナを立ち上がらせた。


 が、ただ立つこともやらなくなっていた少女は呆気無く姿勢を崩してしまう。

 兵士が寄ってきて立たせて貰うが、転んだ不安が異様なほどに膨れ上がり、周囲に手を彷徨わせる。

 車椅子がない。

 探る手がほんの指先一本分の所を掠めているというのに、一度姿勢を崩して周囲への認識が外れたことで完全に冷静さを失っていた。

 周りに何があるか分からない。

 足元の地面は本当に平面なのか。

 一歩前も見えない景色の中で、盲目の少女が最も育んできたのは警戒と恐怖だった。

 見える者からすれば何をしているかも分からない。分からなければ、正しく手助けすることも出来ない。


『なにやってるの?』

 目を瞑ったまま手を振り回して彷徨わせる様子はさぞ珍妙に映ったことだろう。

 恥ずかしくて顔が熱くなった。

『目が見えないのよっ!!』

 感情のままに言い放つと、ようやく相手は理解してくれたようだった。


『そっか、見えないってそういうことなんだ』


 振り回していた手を取られた。

 思っていたより近かったらしい。


 そうして少女は怯えるレイナの手を自分の顔へ誘導して、触れさせた。


『どう? これが私の顔だよ。?』


 ふっくらとした頬に、髪と、その内にある耳。

 動かされるまま掌で瞼と、額と、鼻筋を感じて、指先が口の中に入ってしまう。

『んが』

『あ、ごめんなさいっ』

『んーん』

 それからも誘導に従って顔に触れ、時折自分でも興味が湧いて指先を動かす。


 無遠慮に過ぎるほど他人の顔を弄り回し、ようやく今まで話していた少女の顔を


 小さくて、頬が柔らかくて、口の端が広がっている。


 生まれて初めて認識する他者の顔。

 顔の無い二足二腕の生物に、確かな輪郭を得た。


『私、アルっていうの。ねえ、それに私ものせてよ。いっしょに外でたたかってるきし様見にいこ?』

『えっと……でも』


『私あしが動かないから、自分じゃたてないの。寄ったら二人のれそうじゃん。私が見えるのおしえたげるから』

『えっと……』


『いいじゃん!! はいけってーい! ねえおじちゃんのせてっ、アンタはもうちょっと寄って!!』


 悩むレイナが向く先に迷っていようと、アルは問答無用で蹴っ飛ばす。

 最初からそうだった。


 初めて触れた人の顔、そこに宿っていた途轍もない熱を手の平に握り込む。


 強烈で、熱くて、見えないものを照らしてくれる。


『っよーし!! 行こ行こお!!』


 かつてレイナ=ベレフェスは『眩しい』を知らなかった。

 今はもう、知っている。


    ※   ※   ※


 レイナの引く荷車は危なっかしく、活動的になったとはいえ、まだまだ部屋に引きこもりがちとあって体力的にも頻繁に休憩を挟んだ。

 道行きはアルの呼び掛けがある。

 彼女の声だけは正確に捉えることが出来るし、聞き逃すということが無い。

 石を積んだ荷車を引いて、灯台を目指して歩き続ける。

 困ったことに自分で動き回ってしまう灯台なのだが、気が付けば同じ場所に佇んでしまうレイナにとってはむしろ良かった。


 車椅子で先行するアルは道の起伏を熟知しており、右へ寄れ、左へ寄れ、勢いを付けて一気に、などと指示が入ることもある。

 近頃出入りの者が増えた為に、騎士の娘が荷車を引く様は驚きと共に潜めた会話を呼ぶことにもなるのだが、いつものようにアルの声ははっきりと耳に届き、雑音は気にならなくなっていく。


 怖さはある。

 不確かな音は特に不安だ。

 同じ空間に五人も居れば、そこに顔の見えない人物が混ざればもう委縮してしまう。


「ほら急がないと日が暮れちゃうよーっ」


 アルの声がする。

 汗で張り付いた前髪を腕で拭い、重たい荷車を引く盲目の少女は、勢いを付けて坂道を駆け上がっていった。





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