第2話
砂ぼこりの舞い上がる教練場で汗だくの男達が怒声をあげ、長い木の棒を突き出したり、振り回したりしている。
周囲を囲むのは石の壁。
すわその時となったなら、敵の侵攻を食い止める第二の
日差しを遮るものなど無い場所で、大人達に交じって子どもまでもが訓練を受けている。
が、その子どもらの視線が今日ばかりは訝し気なものになっていた。
「どうだい? 彼らの様子は」
「うーん、気合が足りないですねえっ」
騎士ゼルヴィアの問いに、完全に調子に乗ったアルが腕を組んで答える。
周囲を見渡しやすい様にと木で組まれた舞台上、なんとゼルヴィア自らの手で抱え上げられ、用意された椅子へ座らされているのだ。
「だそうだ。もうじき休憩の時間だろう? 追い込みを掛けてもいいんじゃないか?」
彼が言葉を掛けるのは、この教練場を任されている熟練の戦士だ。
誰よりも太く重そうな木の棒を手にしており、強面の顔を更に厳つく歪めながら頷いて見せる。
「残り百本!! 終わった者から休んで良し! ただしっ、あの尖塔に陽が掛かるまでに終わらなかった者は追加で更に百本だ!!」
因みに彼らが本当に歓迎するべき砦主の娘は杖を片手にアルの後ろで縮こまっていた。
大きい声が幾つも行き交う場所は、目が見えない彼女にとって状況が把握し辛く、何より無用な想像が掻き立てられて怖い。
怖いのに傍を離れなかったのは、面倒事から逃げた従士ジーンと二人で残されてしまいそうだったからだ。
特別彼へ思う所があるというより、慣れない人と二人というのが苦手だった。
その為になら晒し者にもなろう。
「どうですかな、ウチの連中は」
強面さんがアルへ視線をやりつつゼルヴィアへ問いかける。
彼はレイナこそが騎士の娘であることを知っているが、アルに甘い人間の一人なので余計な詮索も公表もしない。
内地の騎士とはいえ、主とは同格だ。
実態はともかく、外地の人間としては意地の一つも張りたくなる。
「さて、軍事に関してはそちらの主の方が詳しそうだけど、威勢の良さは特筆すべきものがあるね」
休み時間と罰則を懸けられては、アルを気にしていた子どもらも余裕はなくなった。
掛け声をあげながら大人に負けじと武器を振るう。
「内地の子どもならこうはいかない」
「でしょうな」
馬鹿にした風でもなく、鼻息荒く応じる強面にアルが意味も無く大仰に頷いた。
「まあまだまだだけどねっ」
「ふふっ、そうだなあ」
笑って応じる強面さんが、持ってこさせた棒と布で簡易の屋根を作らせ始める。
騎士であるゼルヴィアへの気遣いであると同時に、アルとレイナを心配しての事だ。
このおじさん、実は三人の息子を持ちながら、出来れば娘の一人も欲しかったと思っていたこともある。けれどもう一人、と望むには彼の立場では難しい。
「しかし、今日はどうしてこちらに?」
合わせてかしこまった聞き方をしてくれる彼に、アルはまたも大仰に頷いて見せる。
「騎士を目指すなら兵士の教練も学ぶべきだって騎士様がね、教えてくれてるの」
目を丸くした彼が視線を向けると、ゼルヴィアは柔らかく笑んで応じるだけだった。
二人のやり取りを、やや後ろに立つレイナだけが見ており、足元で座る少女には聞こえない様そっと吐息を風に流す。
「騎士というのは戦場に立つばかりではない」
威勢をあげる男達を眺めつつ、内地から来たという騎士は言う。
「騎士とは、国王陛下より特別の赦しを得て与えられる、一代限りの爵位。特定の貴族に一族ごと忠誠を捧げることで、実質的な世襲騎士となる者も多いが、本来は特別な才覚を認められなければ成れないものだ。砦を預かり、その運営や兵の教練を行うことも騎士がすべきことの一つと言えるだろう。民の規範たれ、という言葉は最近になって語られるようになってきたものではあるが、陛下への忠実なる臣民として、正しく尽くし、清廉に生きることで、土地の秩序を保つ役割も期待されている」
だから、と。
「ここの兵らは皆真剣で、自らこの地を守るのだという気持ちを強く持っている。七年前の侵攻については聞いているし、だからこそという面もあるんだろうけど、辺境の地とは考えられない程によく治められているようだね」
掛け声と共に快音が跳ね上がり、東からの風がそれを押し流していった。
※ ※ ※
しばらく教練を見学した後、ゼルヴィアは数名の従士を伴って席を外した。
砦に詰めている文官らが顔を出していたから、何か相談事でもあるのかも知れない。
「おい、アル」
一息入れようと出来た間を縫って、偉丈夫の男が寄ってきた。
今年成人したばかりではあるが、早くも従士の位を授かり、守備隊でも中心的な位置に置かれている実力者だ。
背丈が飛び抜けて高く、手にしている棒も太く重い。
武勇で成り上がることが第一の村で、間違いなく出世頭と言える人物だった。
「なによお」
対し、アルはそっぽを向いて応じる。
顔には口煩い奴が来た、と書いてある。
「あまり邪魔してくれるな。お前にとってはふらついていられる時間でも、俺達にとっては大事な、自分を磨き上げる時間だ」
「別に邪魔なんてしてないし」
「女が近くに居ると、ガキ共が浮つく。従士長もだ。最近東で異民族の動きが活発化していることは知っているだろう。いつ侵攻を受けるかも分からない状況なんだ、少しでも鍛えてやらないといけない」
高原地帯の向こうからやってくる異民族。
その怖さはアルだって分かっている。
記憶には薄くとも、母や兄から、あるいは砦の人々から、どれだけ危険で、凶悪な者達なのかを徹底して教えられている。
「お前がベレフェス家から特別に慈悲を受けているのは分かっている。レイナ様の教育係と称して仕事を貰っているのもな。だから出入りがあるのは分かるが、こちらに近寄るのは控えて貰いたい。ここは本来、女の来る所ではない」
「なんだよそれ」
反抗の言葉も短く、愉しげだった表情はすっかり沈んでいた。
レイナもまた委縮してしまっているが、青年も彼女には一度目をやっただけで、特別何かを言おうとはしない。
新たに声をあげたのは、教練に参加していた子どもらの中で、一際身体の大きな少年だ。
「そうだぜアル~っ。何言って取り入ったか知らないけどよお、騎士様の邪魔するんじゃねえよ」
「取り入ってなんかないし。邪魔なんかしてないもんっ」
言い返せば更に大きな声で応じてくる。
「おいおいまさかっ、お前まだ騎士になるとか言ってんのかあ? 止してくれよっ、自分の脚で立てもしない奴がどうやって砦を守るってんだよお? つーか、騎士様相手に言ってないだろうなお前。恥晒すんじゃねえぞー?」
言葉が聞こえたのだろう子どもらが笑い、口々にアルを揶揄し始める。
彼らにとって騎士は最高の夢だ。
同じものを目指して競い合うこともある。けれど、力の無い者が語れば嘲笑の対象にしかならない。それは彼ら教練に参加する子どもらの間であっても同様だった。
だから間にも入ってこれないような、そもそも戦う姿すら思い浮かばない少女の主張は、夢を穢されたも同然と映るのだろう。
「お遊戯なら部屋の中でやってろよ。邪魔にならず生きてる分には好きなだけ吠えてりゃいいからよお……!! だってお前さあ――――」
続く言葉は、青年の拳骨で叩き伏せられた。
「痛っってえ!? なにすんだよ兄ちゃん!」
「言い過ぎだ。実際、アルの父親のおかげで俺達は税を軽くして貰ってるんだからな」
「だからって何も出来ない癖に偉そうなこと言ってていいのかよ! お遊びで仕事貰ってさあ! 脚が動かないような奴を嫁に貰ってやろうって奴なんて居ないだろうしよお!! ったくもうちょっと弁えろってんだよ! なのにアイツ未だに騎士になるぅ、なんて言ってんだぞ!! きしになるぅう!」
最後の一言がウケたのか、子どもらが揃って大笑いする。
大人らは青年に丸投げしている様子だが、先ほどまでの振舞いもあってか少々冷たい態度の者も居る。
然程豊かでも無い土地柄、幼い子どもでも労働力としての働きが求められる。
そんな中、歩けもしない少女が誰憚らず大口を叩いている現状を、全ての者が歓迎できるとは限らない。
最早拳骨一つでは収集が使いない程に騒ぎ続ける子どもらに対し、黙り込んでいたアルがレイナの杖を奪って――――筆頭たる少年に投げ付けた。
「痛てえ!?」
「うっさいバーカ!! ラウロのバーカ!! バカラウロー!!」
罵倒には罵倒を。
多勢に無勢であることなど、アルの頭には無い。
夢を穢されたのは彼女も同じだ。
少なくとも、彼女の中ではそうだった。
「お前なんて身体でっかいだけで足遅いじゃん! のろまー! 自分の名前も書けない癖に!! バーカ、バァアアアッカ!! ラウロなんて一生従士にも成れないで下っ端してろバーカ!!」
「んだとてめえ!! つけ上がりやがってアルのくせに!!」
「お前らいい加減にしろ!!」
「偉そうに言うなら騎士になればいいじゃん! なれない癖にこっちばっかり馬鹿にしてさあ!」
「だったら今ここで立ち上がってみせろよ!! お前なんかに比べたらずぅぅっと可能性があるんだよ! 立てもしないで騎士になんてなれる訳ないだろお!!」
騒然とした中で、徐々に接近してきていた少年ラウロがアルの胸倉を掴み上げた時だ。
蹴倒された訓練用の槍が派手な音を立てて地面へ散らばる。
休憩に際し、立てかけられていたものだ。
その壁際に立っているのは、
「従士長」
仄暗い雰囲気を放つ男、ジーン=ガルドが静かに声を響かせる。
騒がしかった教練場にあってあまりに異質で、なのに誰しもがその声を聴く。
「血気盛んさを誇る前に、手綱くらいはしっかり握っておくべきだな。これでは猿の集団と変わりないぞ」
「は……はい」
応じる従士長はどこか緊張した様子で、つい先ほど騎士を相手に意地を張っていたのが嘘のようだった。
互いに従士。
それも、騎士ゼルヴィアが伴っていった様子から見れば、明らかに従士長では無さそうな、言ってしまえば格下の者を相手にだ。
「騎士になると言ったな」
彼はゆったりとした歩調でアルの元へ歩いてくる。
おそらくはもう、騎士の娘であるという話は嘘だと見抜かれている。
騙した訳ではなく、誤解を放置した結果ではあったが、当初にはあった容赦の類が完全に消えていた。
正面に立った、暗闇のような男を見上げても尚、アルはアルのままだった。
「そうだよ」
「お前には無理だ」
「っっっ!!」
「図星を突かれて怒り出す程度の者に騎士など務まらん。ゼルヴィアの話を聞いていなかったのか。騎士とは民の規範らしいぞ。お前は主や、主よりも更に上の貴族を相手にも、同じように自分の主張を叩きつけるだけか。誰を守るでもなく、自分を守っているだけの暴力を当然とする。そういうのはな、賊と言うんだよ」
「あ、アンタだって、ただの従士じゃん……」
ジーンは鼻で笑った。
そしてそっとアルに顔を近付けて、強気な仮面の奥を覗き込む。
井戸の底よりも尚暗い、真っ黒で淀んだ瞳が目の前にあった。
「そうだ。俺は騎士じゃない。ただの人殺しだ」
「ひ、と……っ」
「人には限界がある。俺が騎士になれないように、お前は従士どころか戦士にもなれはしない。脚の動かないお前は、他の連中よりも遥かに限界までの距離が短い。そんな中で高い望みを抱いても苦しむだけだ。程度を知り、自分を納得させていけ。そうでなければお前の行き過ぎた望みは、周囲の優しさと甘さの分だけそいつらを巻き込んで不幸にするぞ」
言葉を終え、背を向けて去って行くジーンの後には、ただ開けた景色だけが残った。
教練の最中で動きを止め、ただ見守っていた者達。
蹴倒されたまま転がる訓練用の槍。
あれほど活気付いていた場は冷え切っていて、彼らの視線は自然とアルへと向けられた。
全てが彼女の責任ではない。
けれど、続くべきだった鍛錬を滞らせた渦の中心には確かにアルが居て。
誰もが自分の脚で立ち、戦士として、あるいは戦士たらんとする中で唯一、座り込んだままの少女が居たとするなら。
喉の奥が震え出すのを止める手立ては無かった。
それが致命的なほど大きくなる前に、彼女の車椅子を掴む手があった。
「行こ」
目の見えない少女レイナが、周囲を探り探りに進み、逃げる様に車椅子を押して教練場を後にした。
いや、まさしく逃亡そのものだった。
※ ※ ※
陽の暮れ始めた道端で荒い呼吸のアルが身を揺らしていた。
あれから本来の役目である、本の読み聞かせをし、少しだけ他の勉強にも混じって、様子を見つつ砦から出た。
行き帰りはいつも一人だ。
砦内部の坂道は詰めている兵士に助けてもらっているが、送り迎えまで頼む様な情けない事はしない。砦から家までの道は比較的平坦で、それは遠回りをしてのものではあったが、自分一人で出来るのだという小さな意地を張ってきた。
けれど今日は事情が違った。
行きには無かった轍が、ほんの僅かに抉れた地面がアルの行く手を阻んでいた。
深さは拳一つ分も無い。
けれど注意もせずハマり込んだそこは緩い上り坂で、僅かな窪みが絶望的な斜面を描き、幾度車輪を掴み直して押し込んでも前へ進めなかった。
運悪く窪みの後ろ側には石があり、下がって抜けようにもしっかり車輪を受け止めて動きを阻んで来た。
「っ、っっ!! ~~~~ッ!!」
陽は徐々に沈んでいく。
暗くなれば野犬も出るし、高原からの肉食動物も来ることがある。
そしてこの、アルが自分一人で通える遠回りの道は、普段誰も使わない。
脚が動けば、この程度の轍は鼻歌一つで跨いでしまえる。
けれど車椅子のアルにとっては身動き一つ取れなくなるほどの障害物だ。
第一、誰がこんな道を使ったのだろうか。
轍とは、つまり車輪が通った跡だ。
日陰になることが多い為、普段からやや地面の緩い場所ではあるものの、余程の重量物を運んでいなければここまで沈み込んだりはしない。
村を出入りするのは精々が荷車で、牛を使った牛車も収穫期に近道を通るばかりだ。
アル単独では通れないというだけで、数名で押してやれば越えていける程度の起伏。
それがどうして、今日に限って。
「~~っもう!!」
苛立って太ももを叩く。
思いっきりやったのに痛みはない。
生まれた頃からそうだ。
感覚は無く、動いてもくれなくて、皆が当たり前に出来ることからアルを置き去りにする足手纏いそのもの。
なのに自分と同じく大きくなっていく脚を見る度、いっそ切り落としてやった方がいいとさえ思ったこともある。
使えないモノは要らない。
裕福ではないこの土地で、紛いなりにもアルが生存を許されているのは父親のおかげだ。
命懸けで異民族の襲来を知らせた彼を讃え、実質的な領主としての役割も担っているレイナの祖父が、その遺族が生きている間は税を軽くすると宣言した。
元より内地からの支援金で成り立っている土地だ。収支を考えれば微々たるものだが、ここで生きている者からすれば十分過ぎるほどの恩恵で、故にこそアルの一家に好意的である者は一定数以上居る。
役立たずであっても、畑仕事一つできない少女がふらふらと生きていても迫害されない程度には重んじられていた。
ただその背景にあるのは、何もしなくてもいいから長生きしていろ、とでも言わんばかりの無関心だ。
少女一人を生かすに十分過ぎる恩恵があるから、関係の薄い者ならば当然といえば当然の思考。
だから彼女の兄も従士となる道をやんわりと反対され、危なげない道を歩まされている。
幸いにもアルは脚が動かないというだけで肉体的には健康だった。
税を軽くする。
それは当初、感謝の意味が強かった筈だ。
けれど今は彼女らを救いながらも、阻み続ける枷となっていた。
生きるのは苦しい。
ほんの小さな轍一つ越えていけない。
きっと同じ道を歩いても、殆どの人は気付かずに超えていってしまう障害物で、こうも足止めされて動けなくなる。
「動けよおっ!!」
力任せの揺さぶりに視界が浮き上がった。
右も左もなく、上も下も忘れるような横転の後、地べたに這い蹲った少女が見たのは、緩い坂道を乗り手もなく滑り落ちていく車椅子だった。
「あ、待って!!」
手を伸ばしても届かない。
息を切らせて登ってきた道を勝手に落ちていく。
ここは普段、誰も通らない道だ。
村へ向かうにはもっと楽で、短い道がある。
だけどアル一人で通るには勾配がキツく、どうしても登り切れなくなってしまう。
登りも下りも混じっているから、行きも帰りも使ったことがない。
幸いにも誰も通らないから、この緩やかな坂道でさえ必死の形相で息を切らせながら登っていることを誰にも知られていない。
誰かが送ってくれる時は当たり前の顔をして近道を行く。
彼女の車椅子を押す者は当然の顔をして起伏を越えていって、それについて何かを言った事なんてなかった。
「っっもう!!」
誰にも頼らない。
自分でやるんだ。
そう言い聞かせて地を這いながら車椅子の元へ向かう。
着ている服はすっかり汚れてしまった。
騎士様の娘に会うのだからと、母が奮発して買ってくれたものだ。
レイナの着ている絹織物には遠く及ばない粗末なものだが、母が自分のものを処分してでも用意してくれたことは知っている。
守りたいものさえ守れないまま、腕で身体を引き寄せ、みっともなく這いずって進んでいく。
脚が動けば。
こんな道を通る必要だってない。
騎士だって目指せる。
笑われたって正面から喧嘩が出来る。
口論は出来ても、結局誰一人殴りかかってなんて来ないから。
結果が負けであっても構わないのに、勝負の場にすら立てない自分が居る。
「はぁ……っ、はあ……、はあっ、っは! っっ!!」
ようやく辿り着いた車椅子の車輪を固定させようとして、上部の器具へ手を伸ばす。
座っていれば簡単に届くはずのそれは、地面からアルが精一杯腕を伸ばしても指先を掠めるだけだった。
どうにか車椅子に掴まって身を起こしていこうとするが、何の固定もされていない為かあっさりと姿勢を崩し、アル諸共にひっくり返ってしまう。
「っっもおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
癇癪を起して叫ぶも、結局自分一人でやるしかないことを彼女自身が誰よりも承知している。
騎士になるんだ。
馬鹿にされても、否定されても、自分だけはその夢を信じてきた。
浮かぶ不安や恐怖を無理やりにでも抑え込み、行動を重ねるしかない。
文字は覚えた。
勉強も頑張ってる。
最近は計算だって出来る様になってきた。
通いで坂道を通る事で腕力だって鍛えている。
生半可な運動ではない。車椅子に座り続けていたとしても、彼女の心臓は十分過ぎる負荷を受けて強くなっている。
肉体は健康だった。
しっかり食べて、しっかり眠る。
貧しい土地だ、好き嫌いなんてしている余裕もない。
騎士になりたくて、砦のことを知ろうと質問をして回ったりもする。
だけど脚が動かない。
誰も居ない遠回りの道で、アルは転がった車椅子を見て、あれなら固定具に手が届くと思い直す。
きっと心は強かった。
笑われ、慰められ、嘲笑され、無関心になり、嫌われて、ただ生きていろと心配される。
父は死んだ。
母は強かった。
兄もまた我慢強い。
だから、まだ動ける。
自分の脚でも立てないのに、心でさえ奮い立てなくなったら、本当にただ生きているだけの人形になってしまう。
地面を這いずってでも進む。
「大丈夫か!?」
そんな彼女の身に優しく触れる者が居た。
「こんなにぼろぼろになって……何かに襲われたのか? それとも、誰かが」
騎士、だ。
ゼルヴィア=エルメイアと名乗った、物語から出てきた様な騎士が、アルの顔を覗き込み、心配そうな顔を見せている。
呼吸は荒く、服は汚れ切り、脚の動かない少女が車椅子から放り出されたような状態で地を這っている。
彼の中でどのような想像が巡らされたかは不明だが、まさしく想像の中の騎士そのものな判断で以ってゼルヴィアはアルの身を起こし、抱えるようにして持った。
「安心しろ、もう大丈夫だ」
その表情があまりにも真剣で、柔らかくて。
「っっ!?」
アルの喉が震えた。
きっと間が悪かった。
もう少し前なら。
あるいは、もっと後なら。
けれど彼女の気持ちは既に切り替わっていて、騎士に強い憧れを持つ少女は夢そのものな青年を前に自らの状態を思い出し、あまりにも真っ直ぐ見詰めてくる瞳に強烈な陽の光に晒されたような衝撃を受け、つい、
「っ、きゃぁぁぁぁあああああああ!?」
彼女の中では恥としか言えない醜態を隠したくて、出鱈目に振り回した手で彼の視界を塞ごうとした。
つまり内地の騎士であり貴族であり、自分を心配して駆け付けてくれた美青年の頬を全力で引っ叩いたのだ。
「あああっ、うおえ゛え゛え゛え゛え゛!?」
因みに普段車椅子を腕で押して進むアルは、ともすれば同世代の誰よりも腕力が付いてたりする。
頬に真っ赤なお花を咲かせた騎士は、しばらく呆けて動かなかった。
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