水路の街にて
尾八原ジュージ
水路の街にて
初潮をむかえた頃から、半年に一度くらいのペースで同じ夢を見るようになった。
わたしは水路の横を歩いている。真っ白なコンクリートで両側を固められた、幅一メートルほどの水路には、透明な水が時折飛沫を上げながら流れている。
水路の両端には判を押したように同じ煉瓦づくりの倉庫がずらりと並び、どこかから陽気な音楽が流れてくる。
倉庫と倉庫の間には狭い通路がある。そこを抜けると楽しげな目抜き通りがあって、大勢の人が行きかい、美味しいものを出す屋台や洒落たお店が並んでいる。見たこともないのに、わたしはなぜかそのことを知っている。
でも、そちらに向かう気にはなれない。なぜかといえば、わたしは腕の中に首を抱いているからだ。わたしの首はちゃんと体の上にくっついているのに、腕の中にあるのもまた、紛れもなくわたしの首だ。
首は静かに目を閉じ、かすかに呼吸している。生暖かくて、おそらく実物よりもかなり軽い。切断の跡はなく、顎の下はつるりとしている。
こんなものを持ちながら人通りの多いところへなど行けない。だからわたしは人気のない水路の横を歩いていく。足元には石畳の道が、水路に沿ってどこまでも続いている。
誰にも会わない。夢らしく空を飛んだり、何かに追いかけられたりすることもない。ただ自分の首を抱えて水路の横を歩く。それだけの夢をもう十年以上、定期的に見続けている。
その夢は浮世離れしていながら妙に生々しく、わたしは目覚めるといつも、自分の首がちゃんとついているかどうか確認してしまう。
ある年の春だった。生暖かい夜、わたしはまたくだんの夢を見た。
始まりはいつもと同じだった。水路の横の石畳の道を、煉瓦造りの倉庫を横目に、自分の首を持って歩いている。
現実は曇天の夜のはずだけど、夢の中はいつでも晴天の昼間だ。非現実的なまでに青い空が広がっている。かすかに陽気な音楽が聞こえてくる。
水路の端はあまりに遠くて見えない。煉瓦倉庫の列と共に、どこまでもどこまでも続いている。
辿っていけばそのうち海にでもたどり着くだろうか。わたしはそんなことを考える。そしてふと、「どうしてこんな夢を見るんだろう」とひとり言を呟いてみる。夢の中でこんなことをしたのは初めてだ。すると、
「あなただからだよ」
腕の中で声がする。
わたしの首がぱっちりと瞼を開けて、わたしを見ている。
わたしの瞳に、わたしの顔が映っている。
目が覚めた。
いつものように首がちゃんとついていることを確かめながら、わたしは、全身にびっしょりと汗をかいていることに気づいた。指先は冷たく、まるで自分のものではないみたいに震えていた。
このことを忘れかけていたおよそ一ヵ月後、わたしはまた水路の夢を見た。
いつもならもっと間隔が空くはずなのに、今回はずいぶんと早い。
わたしはいつものように自分の首を抱きながら、ひとりで石畳の道を歩いている。右手には水路、左手には煉瓦作りの倉庫の列がどこまでも続いている。石畳の上で靴がコツコツと音をたてる。
前よりも首が重くなった気がした。いつもはじっと目を閉じているのに、今日は時折薄目を開けてわたしを見る。そのたびに(ああ、こないだ話しかけたりするんじゃなかった)とわたしは後悔する。もっともあのときだって話しかけたつもりなんかなかった。ただひとり言を呟いただけなのだけど、首はきっと自分が話しかけられたと思ったのだろう。だからこんなことになったのだ。
わたしは急に首が厭わしくなってくる。
なぜこんなものを運ばなければならないのだろう。こんなものを抱えているときに、誰かに出会ってしまったらどうしよう。どんな反応をされるだろう――そんなことを考え出すと止まらなくなる。怯えられるかもしれない。恫喝されたり、笑われたりするかもしれない。そう思うといたたまれなくなる。
この首を手放して、あの目抜き通りの方へ駆けていけたらいいのに。
そんな考えが心に浮かぶ。その途端、首が半開きにしていた目をかっと開いて、わたしをじろりと睨む。
「ひっ」という自分の声で目が覚めた。
いつものように首がちゃんとついているか確認しながら、わたしは(夢の中で誰にも会わなくてよかった)と心底ほっとしてしまう。
あんなみっともないところ――自分の首を運び、あまつさえそれに睨みつけられて怯えているところなどを他人に見られなくてよかった、と思う。
それがたとえ、夢の中の出来事であったとしても。
夢は頻度を増した。
半年に一回が一ヵ月に一度になり、夏が終わる頃には週に一度に変わった。
月一の頃は怖ろしかった。
今は倦んでいる。
変わり映えのない夢を週一ペースで見させられることに、いい加減飽き飽きしている。
(どうしてこんな夢を見るんだろう)
以前は考えなかったことを、現実においても考えるようになった。
わたしの首はこの問いに「あなただからだよ」と答えた。もしもわたしがわたしである故にこんな夢を見るのなら、見ないように済ませる術はどこにもないということになる。
どうしようもない。憂鬱だ。
ふと思い立って、離れて暮らす母に電話をかけた。夢のことを誰かに話してみたくなったのだ。
母は大きなため息をついた。
『あなた、まだあの夢見てるの? 水路と首のやつ?』
なぜか詰るような口調だった。不快だったが、ぐっと文句を堪えた。
「ねぇ母さん。何でわたし、こんな夢を見るんだと思う?」
もしかすると、わたしは幼少期に似たような街を訪れたことがあるのかもしれない。それが今でも夢に出てくるのではないか――そんな期待を込めて尋ねてみると、母は
『あなただからだよ』
と答えた。
その口調が、あまりに夢の中の首と似ていた。
恐怖にかられたわたしはスマートフォンを放り投げた。電話口からけたたましい笑い声が聞こえ、通話がぷつりと切れた。
わたしはそこでようやく、母が何年もに亡くなっていることを思い出した。
どうして忘れていたのだろう。そもそも母の携帯電話は、母が亡くなったときに解約したはずだ。急いで発信履歴を確認したが、記録はなかった。
そして、また水路の夢を見る。
わたしはわたしの首を抱き、水路に沿って、人のいない石畳の道をひたすら歩く。
目に染みるような青い空が広がっている。心地よい風が吹き、遠くから音楽が聞こえる。きっと広場に大道芸人がいるのだろう。行ったことがないはずなのに、夢の中のわたしはそれを知っている。
ああ、目抜き通りに行ってみたいな。
そんなことを考える。倉庫と倉庫の間を通っていけばすぐだ。確かコーヒーとサンドイッチの美味しい喫茶店があった。かわいらしいクレープを売る屋台も。店内で迷ってしまいそうなほど広い本屋や、世界中の色鉛筆を置いている文房具屋、アンティークの香水瓶ばかり集めて売っている店もあった。一度考え出すと、一度も行ったことのないはずの目抜き通りの様子が、ありありと頭の中に浮かんでくる。
でも、こんな首を抱えたままでは、賑やかな場所になど行けるわけがない。
わたしは腕の中を見る。首はじろりとわたしを睨み返す。その眼差しには明らかに敵意が混じっている。
「どうしてそんな目で見るの」
わたしが問うと、首は「あなただからだよ」と答える。それから急にギチギチと耳障りな声をあげて笑い始める。耳を塞ぎたくなる。いや、それより首の口を塞いでやればいい。いや、もっと簡単に済ませることだってできる。自分の首だけど、もう愛着など一片もない。
わたしは水路の方に向き直り、今まで大事に抱えていたわたしの首を、水の中に放り投げる。
どぶん、という音が耳の奥を揺らす。
途端に心がすっきりと軽くなり、わたしは目抜き通りの方へと駆けてゆく。その後のことは知らない。わたしの意識はいつの間にか、水路に投げ入れられたわたしの首へと移っている。
水に浮かんだり沈んだりしながら、わたしは水路をぷかぷかと流れていく。空は目の奥が染まりそうなほどに青い。冷たい水が頬を洗う。
流されるうち、今日の夢はやけに長いとわたしは気づく。もうかなり時間が経っているはずなのに、まるで目覚める気配がない。
水路はどこまでも続いている。
水路の街にて 尾八原ジュージ @zi-yon
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