そして、愛してる

高三・春

グラフィティ

 うららかな朝日。

 彼女のいなくなった季節。

 優牙は寂れた旧校舎を前にして、緊張していた。

 ゆっくりと両開きの入口のドアを押し開ける。

 下駄箱の並んだ昇降口だ。中は少し薄暗い。

 優牙は靴を脱いで段差を上がった。もはや土足でもいいのだろうけど、なんとなくそうしたかった。ここがどこか神聖な場所のような気がしたのだ。

 木造の、フローリングのような廊下を歩く。窓から日差しが入って昇降口よりだいぶ明るい。校舎内は色褪せ、古びているが、どこか綺麗に見えた。ゴミや埃がない。つい最近掃除されたかのような。優牙は仏頂面の担任の顔を思い浮かべた。

 この校舎はまもなく解体されるらしい。思い出は消えてなくなるのだ。

 六花が神田に頼んでここに何かを残したという。弱った体に鞭打って、病院を抜け出してまで。

 優牙は廊下を歩く足を止めた。ドクンと鼓動が高鳴る。

 床にネズミの絵が描かれていた。六花の絵の中にいたネズミ。さらにその先にもネズミが見える。三匹目のネズミは少し方向を変えて、一つの教室のドアのほうを向いていた。ネズミが矢印のように進むべき方向を指し示している。

 優牙は指示に従い、その教室に向かった。ゆっくりとドアを横に開く。

 机や椅子がそのまま残されていた。放課後の誰もいなくなっただけの教室のよう。窓から入り込む柔らかい朝日が室内を照らしている。

 そして黒板のある教室前方の一面に、それを見た。

 優牙と六花がいた。

 絵の中に、優牙と六花がいる。

 二人は線路の上にいた。空に月が光る、深夜の線路だ。二人が出逢った春のあの日。

 六花に手を差し出している優牙と、その手を握った赤いパーカー姿の六花。あの深夜の情景が壁一面に描かれていた。

 二人の向こう側には、桜のグラフィティが描かれた車両が見える。

 記憶が鮮やかに蘇った。痺れたように線路の上で見つめ合った二人。震えていた彼女。泣いていた彼女。崩れ落ちそうだった彼女。逃げ出して転んだ彼女に、優牙は手を差し伸べた。彼女の手首に見えたミサンガ。空に見える月が綺麗だった。春の匂いがした。

 彼女が残したグラフィティ。二人の大切な記憶。胸の内に色が彩られていく。

 優牙は教室を見回した。教室の後ろのほうの床に、一匹のネズミが描かれていた。ネズミは出口を向いている。優牙はもう一度二人のグラフィティを振り返ってから、教室から出た。

 廊下を少し進むと、またネズミがいた。教室のドアに向いている。優牙はその教室に入った。

 壁一面に描かれている、彼女のグラフィティが目に入る。

 そこにも優牙と六花がいた。

 浴衣姿の優牙と六花が体を寄せ合い、向こう側を向いて座っている。二人の後ろ姿が描かれていた。その向こうでは、鮮やかな花火が咲いている。紺のキャンバスをバックに咲き誇る夜の花。夏の思い出。

 あの時、花火を目にした六花の表情は悲しげだった。儚く散っていく花火を見て、自分の運命を重ねたのかもしれない。優牙はそんな彼女を抱き寄せた。彼女が遠くへ行ってしまわないように。

 花火を見上げる二人の絵。美しいけれど、どこか寂しげな絵。終わってしまう夏を惜しんでいるような。

 優牙は教室を出た。ネズミが示す次の教室へ向かう。

 六花との思い出の軌跡を辿っていく。

 誰にも邪魔されない、二人だけの記憶。

 教室へ入った。すぐに鮮烈な紅が目に入ってくる。

 紅葉のもみじだった。もみじの葉が舞う中で、優牙と六花がベンチの上で抱き合っている。制服姿の二人。

 六花が自分の命が長くないことを告白し、自身の心情を吐露した。優牙は泣いて震える彼女を抱きしめた。強く、強く。

 運命は残酷なのに、目に見えた紅葉は美しくて。涙が流れる。

 それでも二人は共にいた。そんな六花の気持ちが伝わってくる。春夏秋冬、一巡りの季節を共に過ごした。二人で心を分け合った。どんな時も。

 優牙の胸に不安がよぎる。おそらく次が最後だ。優牙はそこへ向かうことが怖かった。目にする景色が怖いのか。彼女との思い出が終わってしまうことが怖いのか。そんな優牙を床にいるネズミが黙って待っている。

 優牙は歩き出した。ネズミが指し示す最後の教室へ向かう。

 彼女に会いに行く。

 教室のドアを開けた。

 優牙は目を見開いて、その情景を目にした。

 教室全体が絵だ。優牙は絵の中に足を踏み入れた。床、天井、壁。前後上下左右全て絵だ。

 美しい花畑。蝶が舞い、花びらが飛んでいる。どこまでも続く緑の大地。晴れ渡った青空。優しい太陽の光。

 花畑の真ん中に優牙と六花がいた。二人は手を取り合い、歩いていた。穏やかな笑みを浮かべて。幸せを見つけたような顔をして。どこまでも幸せそうな顔をして。

 優牙はその絵を見て、泣いた。

 悲しかったからではない。

 幸せだったからだ。

 彼女がいたからだ。

 二人は一緒だったからだ。

 胸の中に六花が息づいた。どこまでも温かく、柔らかい温もり。

 いつまでも忘れない。たとえ死んでも。世界が消えて無くなっても。

 花畑の片隅に、一匹のネズミがいた。ネズミは鮮やかな虹色だった。

 そのネズミの傍に小さくスプレーで字が描かれている。


〝Thank you〟

〝and〟

〝I love you〟


 彼女からのメッセージが涙で滲んで見えた。

 虹色のネズミが描かれている近くの棚に、優牙はミサンガを見つけた。断ち切れている、彼女のミサンガ。

 優牙は六花からミサンガをもらった時に、彼女に尋ねていた。六花は何を願ってるんだ、と。

 彼女はその願いはもう叶ったと言った。その答えがそこにあった。切れたミサンガの傍にメモ書きがある。


『恋をしたいです』

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