喪失

 年が明けた。朝晩の冷え込みが強くなる。シルバーに乗る時は手袋が欠かせなくなった。

 自分でも驚くべきことだが、優牙は神社にやってきた。お賽銭をして、手を合わせる。

 神頼みなんて、自分から最も遠い行為のように思えた。それでも、なんでもいい、すがれるものがあるならすがりたかった。

 人間とはなんて身勝手な生き物だろう。自分が願いたい時に勝手に願いごとをするのだ。普段はまったく気にも留めないくせに、都合のいい時だけ神を頼る。

 優牙は神社に行ったその足で病院へ向かった。いつもと同じ病室へ廊下を歩く。あと何度通る道だろう? その終わりは、どうか彼女が回復することで終わってほしい。

 病室のドアをノックした。返事がない。彼女は眠っているのかもしれない。

 優牙はそっとドアを開けて、中を窺った。

 誰もいなかった。

 優牙は瞬間的に胸を鷲掴みされたかのような苦しさを感じた。

 彼女がいない。彼女が消えて無くなってしまったのかと思った。

 それは耐えがたい苦痛だった。

 優牙は努めて冷静になり、状況を把握する。病室の中には少ないながら六花の荷物がある。今この時間、病室にいないだけだ。

 彼女がこの世からいなくなったわけじゃない。

 看護師に六花がどこにいるのか尋ねてもいいが、みんな忙しそうにしている。優牙は気持ちを落ち着けて、この日は帰ることにした。

 胸に巣食った虚無感を抱えながら。



 三学期も、六花は学校に来なかった。まるで彼女の存在を忘れてしまったかのように、日々は進んでいく。彼女を置き去りにして。

 優牙は平気な顔して前に進むことはできなかった。誰かにここまで執着して生きたことはない。自分にさえも。それはとても窮屈だった。自由とは程遠い。けれど、だからこそ、優牙には自分の中で信じるものが生まれた。それが愛と呼ぶべきものだと知った。

「月山」

 世界史の授業が終わった後、神田が優牙の名を呼んだ。

「来い」

 そう言って神田が教室から出ていく。

 またネチネチと説教かと思った。しかしどことなく、いつもと態度が違う。優牙は席を立ち、教室から出た。

 廊下で神田が待っていた。鋭い視線で優牙を見据える。

「なんだよ」

 優牙が尋ねても、神田は黙ったままだ。

「もしかして愛の告白でもするつもりか? 冗談じゃねえぞ」

「……お前は幸せ者だ」

「はっ?」

「いずれわかる」

 それだけ言って、神田は背中を向けて去っていった。



 優牙はその日は病院に向かわずに、『喫茶スローアップ』へ行った。

 カランコロン。

 冬の冷気で冷やされた優牙の体を店内の暖かい空気が迎えた。

 奥のほうから小玉が走ってきた。そのままの勢いで優牙の足に抱きついた。優牙はポンポンと小玉の肩を叩き、それから小玉を引き剥がす。

 カウンターの奥にいる康広に声をかける。

「こんちは」

「こんにちは。いらっしゃい」

 優牙はカウンター席に腰かけた。小玉を自分の腿の上に座らせる。

「カレーかい?」

「うっす」

 小玉の体は柔らかくて温かかった。小玉は小さな手で優牙の指を掴んでくる。

 カレーが出てきたので、小玉を隣の椅子にどけた。

 優牙はカレーを食べる。それは美味しくて、温かくて、なぜか泣きそうになった。康広が優牙の様子を心配そうに眺めている。

 カレーを食べ終え、スプーンを皿の上に置く。隣の小玉が優牙の顔を覗き込んでいる。一言も発しない優牙を見兼ねて康広が声をかけてきた。

「大丈夫かい?」

 優牙はテーブルの木目を見つめながら答える。

「康広さん。俺、どうしたらいいかわからないんだ。弱っていく六花を見ていることしかできない」

 康広が悲しそうな顔になった。

「何もしてあげられない。悔しいんだ。今だってあいつは苦しんでるのに」

 優牙は両手で頭を抱えた。

「あいつと一緒にいたいんだ。ただそれだけでいい。それだけなのに」

 優牙は高ぶる感情で声を荒げながら言った。優牙がここまで他人に自分の感情を吐露することは初めてだった。この店の温かさが、そうさせたのかもしれない。

 小玉が泣きそうな顔で優牙のことを見ていた。

 康広は黙って優牙のことを見守っている。今どんな言葉をかけても、慰めにはならない。そう判断したのかもしれない。

 優牙は気持ちを落ち着かせてから、『喫茶スローアップ』を出た。

 頭上には寒空が広がっている。

 雪でも降ってきそうな。



 翌日の日中、スマートフォンに六花からメッセージが届いた。

『今日、学校終わったら病院に来られるかな?

 優牙くん。それに茉莉ちゃんと星村くんも、一緒に来てほしい。

 これがみんなと話せる最後の機会になるかもしれないから』

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