残したもの
学校の屋上にいる優牙に、風が強く吹きつける。
優牙は壁に描かれたもみじのグラフィティの前に立っている担任を見据えた。
「六花に何を頼まれたって?」
威圧するような口調で優牙は問いかけた。自分が知らない六花の秘密をこの男が知っていることが気に入らなかった。
神田は冷たい目で優牙を眺めている。
「月山。お前は学校の落書きを見て何を感じた?」
神田に言われて考える。桜の絵。花火の絵。もみじの絵。
頭に浮かぶのは、六花と過ごした日々だ。とても大切な記憶。
「お前はネズミだ。色の無い」
六花のいない春は、色褪せていた。どうしようもないほどに。
神田は優牙の様子をじっと観察している。
「あんたが描いてたのか? 全部」
優牙の問いかけに、神田は頷きもしなければ否定もしなかった。そんなことはどうだっていいという態度だ。優牙はそれを肯定と受け取った。
まさか教師が学校に落書きをしていたなんて。それもこの負の彫像のような男が。
認識を改める必要があった。目の前の男は、六花と同じライターだ。
「私はただ、頼まれただけだ」
神田が口を開く。
「懸命に何かを残そうとした生徒の頼みぐらい、聞いてやる」
六花が残そうとした? 何をだ?
「白石六花が病院を抜け出していたことは知っているか?」
予想していない問いかけに、答えが少し遅れる。
「ああ。見舞いに行ったけど会えなかったことがあった。何度も」
「私が連れ出した。いや、正確にはただ見ていただけだ」
連れ出した? この男がそんなことを?
「病院を抜け出して、六花は何をしていたんだ?」
優牙は少しだけ寂しかった。六花には自分と会うことよりも優先させていたことがあるのだ。
「知りたいか?」
神田が無表情で訴えかけてくる。
「ああ知りたい」
優牙は正直に答えた。この担任に正直な答えを返すのは癪だったが、今はそれどころではない。
神田は優牙を真っ直ぐ見据えた。
「明日の朝、旧校舎の前に来い。時刻は後で私が指定する」
旧校舎? 幽霊が出るという噂の? 解体が始まるという。
神田はスプレー缶を袋に入れて片づけた。そこから立ち去ろうとしたところで、自分が描いたもみじのグラフィティを一度振り返った。
「その絵は残しておくのか? また騒ぎになるぞ」
優牙が尋ねると、神田は優牙のほうを見ずに答えた。
「少しでも、残ればいい。彼女が刻んだ痕跡が」
それは優牙が初めて聞いた、神田の感傷的な言葉だった。
「鍵は返しておけよ」
そう言って神田が小さなものを投げた。優牙はそれを手で掴む。屋上の鍵だ。
神田は屋上から出ていった。
残ったのは、優牙と、壁に描かれたグラフィティだ。
優牙は絵のほうに近づいていく。
彼女と見た紅葉が思い浮かぶ。
恐怖に怯え、泣いて震える彼女を強く抱きしめた記憶。
おそらく彼女はあの時に決心したのだ。
この世に、何かを残していこうと。
優牙は眠れぬ夜を過ごしていた。しかしいつしか意識を失っていた。
新しい朝がやってくる。
リビングで優牙がトーストにバターを塗って食べていると、母の雫がやってきた。
「おや、今日はずいぶんと早いね」
優牙は黙ってモグモグとトーストを咀嚼する。
「昨日はお寝坊さんだったみたいだけど」
優牙は黙ってコーヒー牛乳を飲む。
「良い朝だね」
雫が窓から入ってくる陽光に目を向けながら言った。
「こうやってまた朝が来る。新しい一日が始まる」
否応なしに。
望もうと望むまいと。
「あたしたちはみんな、そうやって生きていく」
胸にいろんなものを抱えながら。
時に傷つきながら。
それでも。
「前を向いて、生きていくんだ」
朝の柔らかな日差しに照らされながら、優牙はシルバーを走らせる。
思いの外気持ちは落ち着いていた。
心はじっとその時を待っている。
旧校舎に到着した。入口の前に神田が立っている。
優牙が近づいていくと、神田が鍵を渡してきた。優牙は受け取り、校舎の入り口に向かう。
窓のついた両開きのドアだ。鍵を差し込み、解錠する。
ドアを開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます