屋上の落書き

 なぜ神田がここに?

 優牙は『喫茶スローアップ』に入っていく神田を目にし訝しんだ。

 もちろん学校の外でどこで何をしようが、神田の自由だ。喫茶店でコーヒーを嗜むことだってあるかもしれない。だけど優牙はどうしてここに、という気持ちを強く持った。

 隣にいる小玉が不思議そうに優牙を見上げながらくいっと手を引いた。そして一つ思いついた。

「なあ小玉、お願いあんだけど」

 未来のお嫁さん、になるかもしれない女の子に頼み事をする。

「これくらいの紙袋みたいなのねえかな?」

 優牙は自分の顔を囲うような大きさの四角をジェスチャーで表した。

「あったら持ってきてくんないかな。わかる? 紙袋」

 べつに紙袋でなくとも顔を隠せる適当なものがあればよいのだが、以前紙袋を被った人間に尾行された経験で、思い浮かんだのが紙袋だった。

 小玉は要領を得たような得ていないようなどっちつかずの顔をしていたが、大きく頷いて店の中へ入っていった。

 優牙が店の前に停めたシルバーのタイヤの空気の入り具合を確かめて待っていると、ドアが開いて小玉が出てきた。小玉が持ってきたものを受け取る。

 それはふっくら頬っぺたに白い肌の、おかめのお面だった。なんでやねん。紙袋はどこにいったんだ?

 まあ、いいか。これでも一応顔を隠すことはできる。

「ありがとな小玉」

 優牙がお礼をして頭を撫でてあげると、小玉は嬉しそうに笑った。

 優牙は早速顔におかめのお面を装着し、『喫茶スローアップ』に潜入する。

 カランコロン。

 お面に開いている穴から、カウンター席に座っている神田の姿を確認できた。優牙は進んでいき、神田との間に三つの席を空けて座った。すると奥の厨房にいる康広がおかめの仮面を被ったブレザー姿の優牙を目にし、ギョッ! と驚いた。神田は一度優牙のほうに目を向け、しばらく睨んでいたが、やがて興味を失ったように視線を逸らせた。小玉が優牙の隣に座った。

 さあ何か会話をしろ。そしてボロを出せ。その弱味を握って脅迫してやる。優牙はそんな気持ちで担任の様子を窺っていた。

 神田は喫茶店でコーヒーを飲んでいる時もいつもの冷めた表情だった。つまらない奴。一体何が楽しくて生きているんだろう?

「旧校舎の解体が始まる」

 唐突に神田が声を発した。康広に向かって言ったらしい。優牙は意識を集中させて聞き耳を立てた。

「来週だ」

「そうか」

 康広が神田の言葉に相槌を打った。どうやら二人は知り合いらしい、と優牙は推測する。優牙と遊びたいらしい小玉がブレザーを引っ張った。

 神田がコーヒーのカップをテーブルに置き、立ち上がった。便所かと思ったが、もう帰るつもりらしい。一体何しに来たのか。

 優牙の後ろを通る時、神田が一瞬立ち止まった。もしかすると気のせいだったかもしれない。神田はそのまま店から出ていった。

「今、うちのクラスの担任がいたけど」

 そう優牙が言うと、康広がフッと笑った。

「やっぱり優牙くんだったか」

 優牙は用済みになったおかめのお面を外して小玉の顔につけた。小玉は両手を動かして変な踊りを踊った。

「何の話だったの?」

「旧校舎が解体されるそうだ」

「はあ。それだけ?」

「うん」

「康広さんはうちのしけた面した担任と知り合いなの?」

「そうだよ。昔から知ってる。同級生だ」

「へえ」

「高校のころ一緒に描いてたね」

「えっ? 何を?」

「グラフィティ・アート」

「うちの担任が?」

「そうだよ」

 それは意外だ。ただの嫌味たらしい堅物かと思っていたのに。

 小玉が構ってほしくてブレザーの裾を引っ張った。

 康広が少し前のめりになって優牙を見た。

「答えを知りたいかい?」

「答え? 何の?」

「あのしけた面した男の後を追えば何かわかるかもね」

 優牙は瞬間的に、康広の言葉の意味に思い至った。脳内物質がガッと興奮作用をもたらす。

 椅子から立ち上がった。入口のほうへ向かおうとすると、小玉に腕を掴まれた。

「もう帰っちゃうの?」

 優牙は小玉のほうを振り返り、屈んで小玉と視線の高さを合わせた。

「ああ。また来るよ」

 優牙は寂しそうな顔の小玉の頭を撫でた。康広が見ていなかったらほっぺにチューぐらいしたかもしれない。

『喫茶スローアップ』から出た。日はもう沈みかけている。

 シルバーに跨り、走らせた。学校に向かう。

 学校前の通りで、校門から入っていく神田の姿が見えた。

 職員用昇降口から校舎に入っていく神田を見届け、近くにシルバーを停めた。昇降口に入り、その辺にあるスリッパに履き替えた。神田を追っていく。

 神田は文化部の部室が点在しているエリアに来た。その一つの教室に入っていった。

 優牙が柱の陰に隠れて待っていると、一分も経たずに神田が出てきた。手に布の袋を持っている。神田は階段を上がっていった。

 校舎の最上階まで来て、神田はさらに階段を上がっていった。そっちにはもう屋上しかない。

 神田は鍵を開けて、屋上へ出ていった。

 優牙はすぐに屋上へ出たい衝動を抑えて、時間の経過を待った。神田が何かするつもりなら、その決定的証拠を掴みたい。

 十分。ニ十分。階段に腰かけて待つ。

 三十分は待てなかった。優牙は鍵の開いている屋上のドアを開けた。

 空に星が見える。夜だ。下にいる時より少し強い風が吹く。

 神田は屋上の壁にスプレーを吹きつけていた。見覚えのある絵。もみじのグラフィティだ。

 優牙がやってきたことに気づいているはずだが、神田は見向きもせずに絵を描いていた。

「なんでだよ」

 優牙が発した声は風にさらわれていく。

「なんであんたが六花の絵を描いてんだよ」

 神田が無表情のまま優牙に顔を向けた。

 優牙は紅葉の片隅にいるモノクロのネズミに目を留める。

「頼まれたからだ」

 神田の低い声が響く。

「月山。お前がもし腑抜けた顔をし続けていたら、導いてやってほしいと」

 二人の間を風が吹き抜ける。

「誰にだよ」

 訊かなくても答えはわかっていた。

 神田は無表情のまま言った。

「白石六花にだ」

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