小さな未来
昼休み、優牙はたまごサンドをかじりながら、スマートフォンの画面を眺めていた。ネットに出回っているレッドフードのグラフィティの写真を見比べている。
去年に六花が描いた絵。そしてこの春に何者かが模範した絵。桜の絵と、花火の絵。体育館裏と、このクラスの廊下にあった絵。
この絵が伝えようとしていることは何だろう? 誰が何のために描いたのか。優牙は片隅にひっそり佇んでいるネズミに注目する。
六花の桜の絵と、何者かが描いた桜の絵では、どちらもネズミに色は無い。しかし違うのは花火のほうだ。六花の花火の絵にはネズミに青い色がついていることに対し、三年F組の廊下にあった花火の絵にはネズミに色がついていなかった。
単なるミスなのか? それともそのことに意味があるのか?
このネズミは心のありようを象徴している。
色の無いネズミは、まるで今の優牙の精神状態を表しているかのようだ。
優牙が難しい顔をしながらコーヒー牛乳をストローで啜っていると、蓮が優牙の顔を窺いながら声をかけてきた。
「どうしたんですか? そんな漁網にかかったタコみたいな顔をして」
「そんな顔してた?」
「はい」
「じゃあ、そんな気分だったのかもな」
「レッドフードの絵のことを考えているんですね?」
蓮は優牙のスマートフォンの画面をちらっと見ながら言った。
「ああ」
「優牙さんは、本当に白石さんのことが好きだったんですね」
言われて優牙は蓮の顔をじっと見た。
「悪いか?」
「いいえ。ただ、実はもう一つ白石さんに頼まれていたことがあるんです」
「なんだよ」
「もし優牙くんに好きな人ができたら、応援してあげてね、って」
蓮は寂しそうな表情で言った。それは六花が言いそうなことだった。優牙は六花の心情を想像すると胸が苦しくなる。自分がいなくなった後のことなんて、考えたくもない。六花は最後の時をどんな気持ちで過ごしていたのだろう?
やるせない気持ちのまま、放課後を迎えた。
駐輪場でシルバーに乗り、校内から出る。
真っ直ぐ家に帰りたくはなかった。家で一人でいると彼女のことばかり頭に浮かんでしまうから。
宛てなくシルバーを走らせているつもりだったが、気づけば『喫茶スローアップ』に到着していた。
入口のドアの前に小さな女の子が立っている。小玉だ。
「よう」
優牙は小玉に声をかけた。いつもだったらはにかんだり逃げ出したり隠れたりする小玉だったが、この日は違った。むすっとした表情で優牙に近づき、ブレザーの裾を引っ張った。
「なんだよ」
「小玉、公園行きたい」
小玉は裾を引っ張りながら優牙の顔を見ずに言う。
「じゃあ行ってくれば?」
優牙は悪戯っぽく言ってみた。すると小玉は優牙のことを見上げて睨んだ。それから黙ってさっきよりも強くブレザーを引っ張る。
「わかったよ」
公園は近くにある。優牙は駐輪禁止の『喫茶スローアップ』の前にシルバーを停めて、小玉と一緒に歩き出した。優牙が手を差し出すと、小玉が小さな手で握ってきた。夕陽を背にしながら二人は歩く。
公園に到着した。住宅に囲まれたさして広くもない公園。
「着いたぞ」
優牙が公園の入り口で突っ立っていると、小玉が前に出て手を引いた。ブランコのほうへ近づいていく。
そのままブランコに乗るのかと思ったが、小玉は立ったままだった。
「乗らねえの?」
優牙が尋ねると、小玉は優牙の体を押した。どうやら乗れということらしい。
優牙はブランコに座った。隣のもう一つのブランコが空いているが、小玉はそちらに乗らずに優牙の腿の上に乗ってきた。優牙に背中を預ける体勢だ。
優牙は両手で小玉の体を支えながら、軽くブランコを揺らした。小玉は小さな指で優牙の手に触れてくる。
しばらくそうしていた。これで満足だろうか?
「小玉、ゆーがしゃんのお嫁しゃんになる」
唐突に小玉が聞き捨てならない言葉を吐いた。
優牙はブランコを止めて腿の上から小玉を下ろした。
「今、なんつった?」
優牙のほうを振り返った小玉は、懸命な表情で訴えてくる。
「小玉、ゆーがしゃんと結婚する!」
小玉がブランコに座っている優牙に正面から抱きついてきた。
おいおい。まだ五歳とはいえ、こんな状況康広に見られたら厄介なことにならないか? それとも親公認なのか?
「ゆーがしゃんと結婚する!」
優牙のお腹に顔を埋もらせながら小玉が声を上げる。どうやら小玉なりに真剣のようだった。
優牙は小玉の小さな背中を撫でる。恋しかった温もりを久しく感じた。その温かさは自分が欲していたものだと優牙は気づいた。それは優牙にとってありがたい慰めとなった。この小さな体にも確かな命と心が宿っている。その気持ちには誠実に応えなければならない。
「おい、小玉」
優牙に呼ばれて小玉が体を密着させながら顔を上げた。
「俺と結婚したいのか?」
小玉はコクンと頷いた。
「じゃあ、結婚すっか」
小玉はニッコリと微笑んだ。
それがその場しのぎの嘘となるのか。それとも未来の事実となるのか。
優牙はなぜか、後者になるような予感がした。
夕陽がブランコの上で抱き合う二人を照らしている。
優牙は地面に伸びている自分たちの影を見た。そこに誰かがいるような気がして。
一陣の風が二人の体を煽り、少し寂しげに過ぎ去っていった。
公園を出て、小玉の手を握り並んで歩いた。小さいけれど温かい手。
『喫茶スローアップ』が見えてくると、入り口から中へ入っていく一人の男の姿が見えた。
瞬間的に優牙の中で様々な感情が沸き立つ。
店へ入っていったその男は、担任の神田だった。
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