特別な日

 正午に近い午前中、優牙は学校の最寄り駅の駅前にいた。シルバーを椅子代わりにして座り、待ち人を待っている。

 駅に列車が到着してからしばらくして、改札口から人がちらほらと出てきた。乗客の多い時間帯ではない。その中に一人、制服姿の女子を見つけた。気づいた女子がこちらへ近づいてくる。

「おはよう、優牙くん」

「おはよ」

 優牙の前にやってきたのは六花だ。彼女の制服姿を見るのは久しぶりだった。前に見たのは一学期の終業式のはず。

「本当に待っててくれたんだ。ごめんね」

「謝るなよ」

「うん、ごめんね」

「はあ」

 優牙は溜め息を漏らした。そんな優牙を見て六花はもう一度謝りそうになった。

「いいか、今日はお前は我がままに過ごすんだ。俺がなんでも言うことを聞いてやる。だから、そんな顔すんな」

「わかった。ごめ……」

 六花は慌てて両手を口元に当てた。ぎりぎりセーフということにしておいてやろう。

「それと」

「うん」

「なんか体調変だと思ったらすぐに俺に言え。今日は俺が服にひっついた毛玉みたいにずっとくっついていくからな」

「わかった。ありがとう」

「トイレまでついていくからな」

「えっと、それはちょっと」

「ちょっと、ちょっとちょっと」

 優牙はシルバーから下りてサドルを空けた。

「じゃ、とりあえず学校行くぞ。乗れ」

「もしかして、二人乗り?」

「三人目がどっかにいる?」

「うーん、いないかな」

 六花をシルバーに座らせた。優牙はその前につく。

「いいか、強く情熱的に俺を抱きしめておけよ。振り落とされるからな」

「そんなこと言われたら恥ずかしくてできないよ」

「なんかあったら俺の脇腹をつねろ。それが合図だ。行くぞ」

 優牙はシルバーをスタートさせた。六花は控えめに優牙の体に触れてくる。

「優牙くん。ありがとう」

 六花のぼそっとした呟きが聞こえたような気がした。



 学校の構内はいつもにない賑わいがあった。この日は学祭で、教師や生徒たちだけでなく一般の人間も多く訪れている。駐輪場にシルバーを停めて校舎に向かった。

「学校。久しぶりだ」

 六花が嬉しそうに言った。優牙は彼女のその横顔を黙って眺める。

 校舎に入って自分たちの教室に行くと、そこは簡易なお店になっていた。入口には『男装・女装カフェ』とある。

「六花!」

 中に入ると、執事のコスプレをした男装茉莉が走ってきて六花に抱きついた。

「えっ、えっ、もしかして茉莉ちゃん?」

「そうだよ。よかった、六花に会えて」

 茉莉は六花に抱きつきながら瞳を潤ませている。

「ごめんね、茉莉ちゃん。まだちょっと状況が掴めなくて」

「こいつついに男に目覚めたらしいんだ」

 優牙が口を挿むと、茉莉がキッと優牙を睨みつけてきた。

 教室の中ではいくつか座席が組まれ、一般客相手に男装や女装をした生徒が飲み物と簡単な食べ物やお菓子を振る舞っている。何人かが茉莉と六花の騒ぎを聞きつけてこちらを見ていた。そして三人がいる入口のほうへ一人近づいてくる。

「えっ、嘘?」

 六花は驚愕に目を見開いた。

 近づいてきたのは、ゴシック・ロリータの黒いドレスに身を包んだ蓮だった。アッシュグレーのカツラに髪飾りまであてがわれ、メイクを施した顔はもはや美少女以外のなにものでもなかった。恥じらいの表情がさらに乙女感を加速させている。

「白石さん、こんにちは」

「もしかして、星村くん?」

「ちちちちち違いますよ。ここここここれは僕がやりたいって言ったのではなくって、むむむむ無理やり」

 あがっている蓮は訊かれてもいないことを必死に弁明した。その間もパシャパシャと横から写真を撮られている。

「確実に茉莉より可愛いな」

「あーん?」

 茉莉は茉莉で男装がとても似合っている。面白い二人だった。

「そっか。確かこういうことやるって言ってたよね。ごめんね準備に参加できなくて」

「だから謝るなって」

 茉莉が優牙と六花を交互に見た。

「それじゃ、あんたたちも着替えて」

「はあ? いいよ俺たちは」

「いいよ、じゃなくて、強制。確かまだメイド服が残ってたなー」

 茉莉がルンルンとスキップしながら去っていった。逃げるなら今のうちだ。

 だけど今日は六花も一緒だ。一人で逃げるわけにはいかなかった。

 結果、優牙はメイド服に着替えさせられた。

「ぷふくっ」

 茉莉が妙な含み笑いをしてくるので、優牙は苛立った。どついてやろうかこのヤロー。

「おっきいなあ」

 六花は男装用の服の用意がなかったので、優牙が着ていたブレザーを着ることになった。袖が指先のほうまである。

「優牙くんの匂いがする」

「嗅ぐな」

 二人はその格好でしばらく『男装・女装カフェ』の店番をすることになった。

 六花は日頃から『喫茶スローアップ』の手伝いをしているので、手慣れている。見たところ体調は悪くなさそうだった。

 メイド服姿の優牙がぶっきら棒な顔で突っ立っていると、一人の客が入ってきた。帽子にサングラスにマスクの怪しい客だ。どうやら女らしい。女はキョロキョロと教室内を見回していたが、その視線が優牙に向くとピタッと動きを止めた。そしてマスク越しでもわかるほどにニッと口角を上げて笑った。

「ちっ」

 優牙はあからさまな舌打ちをした。女の正体がわかってしまったのだ。

「そこのきみ。ご案内してくれないかい?」

 女がサングラスを外してメイド服姿の優牙をじろじろ見ながら言ってきた。

「お帰りはあちらです」

「ほうほう。ずいぶん不親切なメイドさんだ。誰に似たんだろう」

「あんたに似たんだろ」

 やってきた怪しい客は母の雫だった。なんてタイミングの悪さだ。こんな姿を見られるなんて。

 雫は優牙に注文し、ニコニコしながら席で待っている。

「くっそう」

「どうしたの優牙くん」

 ドリンクを作っていると六花が訊いてきた。

「嫌な客が来た」

「嫌な客? あの綺麗な人? 何かあった?」

「べつに」

 優牙はドリンクと軽食を持って雫のテーブルに向かった。手作りのコースターを置き、その上にジュースの入ったプラスチックのカップをのせる。

「ほらよ。とっとと帰ってくれ」

「ずいぶんと楽しそうにしてるじゃないか」

「あんたさえ来なかったらな」

「そう言うなって。優牙に見つからないように変装までしてきたんだから」

「意味あるかその変装」

 さらに客が入ってきた。大柄な男と、小さな女の子。手を繋いでいる。康広と小玉だった。

「やあ六花」

「康広おじさん、こんにちは」

「変わった格好をしてるね」

「これ優牙くんのなの」

 康広と小玉が六花に合わせて優牙に視線を向けた。すると小玉がギョッ! となって勢いよく康広の後ろに体を隠した。優牙の格好にびっくりしたらしい。優牙は店番の交代の時間が待ち遠しかった。

「ちょっとそこのお嬢ちゃん、写真を頼めるかい?」

 雫が六花に声をかけた。自分のスマートフォンを差し出している。

「写真ですか。かしこまりました」

「あそこのメイドさんとツーショット写真を撮りたいんだ」

「だって、優牙くん」

「はいはい」

 もう逆らうだけエネルギーの無駄な気がした。諦めの境地というやつだ。

 愛想のない優牙に楽しそうに肩を組んでくる雫の写真が撮れた。

「さっきのお客さん誰だったの?」

 雫が満足気に帰っていってから、六花が訊いてきた。

「うちの母親」

「えっ、ホント?」

「嘘吐いてどうする」

「もっとちゃんと挨拶しておけばよかった」

「なんでだよ」

 店番の時間が終わり、優牙と六花は元の自分の格好に戻った。

「ん? なんか六花の匂いがするな」

「ちょっと、やめてよ!」

 優牙がブレザーをクンクンしていると六花が恥ずかしそうに声を上げた。

 自由時間になったので、これから二人で校内を回ることにする。

「どっか行きたいとこある?」

「優牙くんと一緒ならどこでもいいよ」

「そっ」

 優牙は六花に背を向けながら後ろ向きに片手を差し出した。リレーのバトンを受け取るような体勢で。六花は差し出された手をじっと見つめている。

「ほら、行くぞ」

「うん」

 六花が優牙の手を握った。温もりを交換し合った。

「優牙くんの手っていつも温かい」

「あっそ」

「私大好きなんだ」

「手だけかよ」

「全部だよ」

「そっ」

 彼女に合わせて小さな歩幅で歩く。少し前までは、自分がこうやって誰かに寄り添うようになるとは思いもしなかった。

 六花はまだ退院していない。今日は特別に外出許可をもらっていた。だから今日は少しでも良い思い出を彼女に作ってあげたかった。そのためなら、一日ぐらい彼女の王子様になってあげてもいい。

 たこ焼きにおでん、クレープにチュロス。外の出店で買い食いをした。四人で行った夏祭りが思い出される。



 大勢の人で賑わうグラウンドを歩いていると、泣いている小さな女の子を見つけた。小玉と同じぐらいの年齢だ。しゃがんだ体勢で両手で顔を覆うようにして泣いている。

「迷子かな? 大丈夫?」

 六花が女の子に優しく声をかけた。しかし女の子は両手を目元に当てたまま泣き止まない。

「優牙くんどうしよう」

「とりあえず誘拐してみる?」

「しないよ」

 無駄な問答をしているうちに女の子の泣き声はさらに大きくなって、周りに人が集まってきた。

「俺たちが泣かせたことになってないよな」

「迷子の放送してもらったほうがいいよね」

 その時泣いている女の子より少し大きいおそらく小学校高学年の女の子がやってきて、泣いている女の子の肩に軽く手を置いた。泣いている女の子が顔を上げる。小学生の女の子はその場でバレリーナのように優雅に舞い始めた。

 どこからともなく音楽がかかった。イントロの少し切なげなピアノのメロディから始まり、軽快なリズムの明るい曲が響く。

 泣いていた女の子は立ち上がり、笑顔になってもう一人の女の子と一緒に踊っていた。

 優牙は隣にいる六花の顔を覗き込む。彼女は小さく口を開けて呆然としていた。

 バイオリンの生演奏の音が聴こえる。タキシード姿のスラッとした男がバイオリンを弾いていた。さらにその後ろで、吹奏楽部の面々が楽器を奏でている。

 輪の中に続々とダンサーたちが入ってきた。リズムに合わせて息の合ったパフォーマンスを繰り広げる。グラウンドはあっという間にフラッシュモブの会場と化した。

 ダンサーには大人もいるし、この学校のダンス部の連中もいた。よく見ると、執事姿の茉莉とゴスロリドレスの蓮までダンスに混じっていた。

 六花の開いている口がどんどん広がっていく。そんなに大口開けてたら虫でも入るぞ。

 曲がサビに入り場は更なる盛り上がりを見せる。優牙は快活そうな顔をした女性にちょんちょんと手招きされた。その場に六花を残して移動する。一度六花のほうを振り返ると、彼女は驚きを通り越して泣きそうな顔をしていた。

 ダンサーたちが六花を囲んで見えなくしている間に、優牙は花束を持たされた。隣に立っている女性が優しく微笑みながら勇気づけるようにポンと優牙の肩を叩いた。どことなく母の雫に似ている女性だった。

 ダンサーたちが道を開け、優牙と六花の間に真っ直ぐな道ができる。六花は感情をこらえるように静かに俯いていた。優牙はダンサーたちが作ってくれた道を進んでいく。そして六花の前に立った。音楽が止む。

「なんか、ちゃんと言ってなかったと思うからこの際はっきりさせとこうと思って」

 六花が顔を上げて優牙を見た。

「これからも六花と一緒にいたい。だから、俺と付き合ってくれ」

 優牙は頭を下げて、花束を差し出した。

 本当は、もっと大きな約束をしたかった。だけど今の自分には、これが精一杯だ。

 観衆が固唾を吞んで二人の様子を見守っている。

 六花は目尻から流れ始めた涙を拭った。そして一歩近づき、花束を受け取った。

「はい」

 周囲から割れんばかりの拍手と喝采が巻き起こった。

 優牙は再び泣き始めた六花の頭を優しく撫でた。



 夕方になり、学祭もそろそろお開きの時間になった。

 優牙と六花は校庭の端にある木の陰で座っていた。

「疲れただろ。そろそろ帰ったほうがいいよな」

 優牙は六花に言った。帰るといっても、家にではなく病院にだったが。

 六花は前を向いたまま黙り込んでいる。

 目の前の落ち葉が風で揺れた。

 六花と出会ってから、二つの季節が巡った。あとどれぐらい彼女と一緒に過ごせるだろう。

「あのね、優牙くん」

 六花が口を開いた。優牙は隣にいる彼女に顔を向ける。

「今日は私の言うことなんでも聞いてくれるって言ったよね」

「ああ、言った」

「それじゃあ」

 六花が天使のような微笑みを浮かべた。

「私をここから連れ出して」

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