旧校舎の幽霊

「ねえ、いよいよやばくない? またレッドフードじゃん。しかもうちのクラスの廊下に出るとか、やばいよね。なんか怖くなってきた。呪われたりとかしてないよね? ああもちろん待ち受けにはしてるよ。恋運上昇155%だもん。

 怖いといえば、また見た人いるらしいよ。何って、あれだよあれ。旧校舎の幽霊。夜な夜な歩き回ってるんだって。中入れないはずなのに。やばいよね。本物だと思う?

 でも一番やばかったのは、この前のテストの点数だよ。おっそろしいことになってた。やばいよやばいよ」


 三年F組の廊下に花火の落書きがあった翌日、ホームルーム前の教室ではレッドフードに関する噂や憶測などが飛び交っていた。校門の前ではカメラを持った怪しげな連中がたむろしていたりもした。受験を控えている生徒たちにとってはいい迷惑だろう。

「優牙さんは幽霊っていると思いますか?」

 後ろの席にいる蓮が訊いてきた。少し前に噂になっていた旧校舎の幽霊ってやつだろう。

「幽霊って、空飛べんのかな?」

「空ですか。なんとなく飛べそうなイメージはありますね」

「じゃあなってみるのも悪くないな。空飛べるし、ご飯食べなくてもいいし」

「でもそれだとたまごサンドが食べられなくなるんじゃ」

「なんだと!? そりゃあ一大事だ」

「でも優牙さんなら、幽霊になってもとくに今と変わらなそうですね」

「変わらずイケメンってことか」

「は、はい」

「変わらず右手の中指より左手の中指のほうがちょっとだけ長いってことか」

「は、はい」

「変わらず蓮のことを愛して愛してやまないということか」

「は、はははは、はい」

 冗談だとわかっていても顔を真っ赤にする蓮は、やっぱり可愛い。

「旧校舎って、裏手にあるやつだよな」

「はい。取り壊しが決まって、そろそろ着手されるらしいですが。暗くなってから前を通ると、結構雰囲気ありますね。なんか出そうな」

「今度潜入してみる?」

「鍵がかかっていて入れないと思いますし、あまり気乗りはしません」

「怖かったら俺に抱きついてくればいいさ。昨夜のベッドの上みたいにさ」

 優牙のその言葉で聞き耳を立てていた周囲の女子たちから興奮の声が漏れた。

 蓮は教科書を持って顔を隠した。そんな反応したら実際の出来事だと思われるかもしれないじゃないか。

 教室前方のドアが開いた。担任の神田が入ってくる。

 まだチャイムは鳴っていないのに、教室内が若干静かになった。神田には無言の威圧感がある。誰も目をつけられたくはないだろう。

 優牙は神田のことが気に入らなかった。何から何まで気に入らない。枝毛の一本一本まで。この担任と空間を共有するたびそんな感情が沸き起こる。

 スピーカーからのろまなチャイムのメロディが鳴り響いた。教卓にいる神田が生徒たちを見据える。

「さて、諸君。今日は連絡事項の前に一つ話をしよう。とても腹立たしい話だ」

 常に眉間に皺が寄ったような神田の顔がいつも以上に苛立って見えた。

「諸君らは我を通す人間のことをどう思う? 他人への迷惑を顧みず、煩わせ、自分のやりたいことを優先させる人間のことだ。

 いかなる崇高な目的があろうとも、それは批判されるべきことではないだろうか」

 神田は一体何の話をしているのだろう? そう思っているのは優牙だけではないはずだ。

「私はそのような人間が嫌いだ。不愉快である。癪に障る。鼻持ちならない。反吐が出る」

 なんだか今日の神田はいつも以上に毒々しい。

「そこまでして残したものに、果たして価値はあるのだろうか」

 神田が優牙のほうに目を向けた気がした。

「私は後悔しかけている。ほんの義理だろうか。それとも同情だっただろうか。

 それとも、対象が悪かったのか。

 昔を懐かしんだのか。

 ほんの些細な目的だ。取るに足らない。

 とにかく私は気に入らない」

 それで神田の話は終わった。唐突に。初めから最後まで何の話をしていたのかわからなかった。クラス中にクエスチョンマークが飛び交っている。これからはクエスチョン神田と呼ばなければならない。

「クエスチョン神田先生」

 優牙は言いながら右手を上げた。茉莉と何人かがクスッと笑った。

 神田が気怠そうに優牙を見る。

「廊下の落書きの件はどうなりました? 犯人は見つかりましたか?」

 優牙はクラスのみんなも知りたいであろう事柄を尋ねてやった。

「それを知ってどうする?」

「やったー知ったぞー、ってなります」

「そうなる必要はない」

「知る権利はあると思います。情報を渡せ」

「あのような無様な真似はするな。私が言いたいことはそれだけだ」

「あれのどこか無様なんだ?」

 優牙の刺々しい声で、教室内にピリッとした緊張感が走った。

 あれは六花の絵だ。本人が描いたものではないとしても、それを無様とは言わせない。

 神田が大きく溜め息を吐き、改めて優牙を睨みつけた。

「一つだけ教えてやろう」

「なんだ?」

「時は戻らない。幻想に囚われる暇があるなら、前を向け」

 優牙は神田の言葉の意味を考える。何のことを言っているのか。

 神田はどこか遠くを見つめていた。



 学校の終わった帰り、優牙は何気なく旧校舎の前にやってきていた。停めたシルバーに跨りながら、その老朽化したかつての学び舎を眺めた。

 二階建ての横に長い建物。木造丸出しの、大きな山小屋のような。塗装は剥げ、年老いた老人のように痛ましい。一階も二階もたくさんの窓が並んでいるが、そこから中の様子は見えなかった。

 崩れる危険性や防犯の観点から、建物は立ち入り禁止となっている。

 数ヶ月前の冬ごろから、この旧校舎に幽霊が現れるという噂が広まっていた。面白い発想だ。何か人影のようなものを見たとしても、どうやってそれが幽霊であると証明したのか。そいつが「私は幽霊です」とでも言ってきたのだろうか。そもそも幽霊とは何だ?

 古びた旧校舎を眺めている優牙は、目に見える光景にどこかシンパシーを感じた。

 あのモノクロのネズミのように。

 過去の季節に取り残され、忘れ去られる運命。

 日々は進んでいく。

 季節は巡っていく。

 その中で、彼女は何かを刻もうとした。

 自分が存在した証。

 いや、それとも……。

 優牙はペダルに足を置き、シルバーをスタートさせた。

 感傷に浸ってばかりの自分が嫌になる。

 だけどこの空虚な気持ちはどうしようもない。

 今年の春は、色の無い季節だった。

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