潜伏者

 優牙と蓮と茉莉は、揃って『喫茶スローアップ』から出た。

 夕焼けが街に滲んでいた。朱い絵の具を吹きつけたみたいに。

「あのね」

 茉莉の声がしたので、優牙は彼女を振り返った。

「あの絵のこと知りたいのは、優牙だけじゃないから」

 茉莉の瞳が夕陽を反射していた。

「六花のこと想ってるのは、優牙だけじゃないから」

 優牙は黙って幼馴染の顔を見つめた。

「だから、一人で抱え込まないこと。いい?」

 茉莉がビッと優牙の顔を指差した。

「ああ、わかった」

 優牙は素直にそう言ったが、茉莉はあまり納得いっていない様子だった。優牙の悲しげな表情を見たからかもしれない。茉莉も憂いに満ちた表情で顔を逸らした。

 三人は『喫茶スローアップ』の前で別れた。

 優牙はなんとなく、すぐに家には帰りたくなかった。とくに目的もなく、シルバーを走らせる。

 赤いフードの女と初めて会ったあの時のように。

 胸の内に悲しみの感情が広がっていく。

 こんな気持ちになるぐらいなら、初めから出会わなければよかったのだろうか?

 いや、違う。

 彼女と出会えたから、自分にも色がついたのだ。

 モノクロだった心に、鮮やかな感情が咲いた。

 お互いがお互いを必要とした。

 手を握り合った。

 月明かりの下、電車の落書きの前で出会ったあの時から。

 彼女の顔が浮かぶ。

 優牙の目尻から何かが流れていった。

 シルバーが風を切り、その滴を後方に押しやってくれる。

 お前はいつも傍にいてくれるな、と優牙は二輪の相棒を労った。

 ペダルを思い切り漕ぎ、加速していく。

 彼女の声が聞きたかった。

 彼女の手に触れたかった。

 夕陽に向かって、優牙はただ願い続けた。



 日が暮れてから、家に帰った。駐輪場にシルバーを停め、マンションの階段を上がっていく。

 鍵を開けて玄関に上がる。リビングに電気が点いていないので、母はまだ帰ってきていないようだった。

 散々シルバーを漕いできて汗をかいたので、先にシャワーを浴びた。

 部屋着に着替え、自室に入って電気を点けた。

 漫画しか詰まっていない本棚、ゲーム機を繋げているテレビ、PCがのっている机。

 そして、ベッドの上に明らかな違和感のある膨らみを見つけた。掛け布団がもっこりと膨らんでいる。まるでその下に人が潜んでいるみたいに。

 優牙はベッドのほうへ進んでいき、掛け布団を持って一気に引き剥がした。

「やあやあ、おかえり」

 子宮にいる赤ん坊みたいな体勢の雫がまったく気に留めていない表情でそう言った。

「人のベッドで寝るな」

「ちょっと人恋しくなっちゃってね」

 雫の発言は本気なのか冗談なのかよくわからない。優牙もあまり他人のことは言えなかったが。

 雫は起き上がってベッドの端に座り、興味深そうに優牙のことを眺めている。

「なんだよ」

「なんだか寂しそうな顔だね」

「そうですか」

「心細かったら、あたしの胸の中に飛び込んできてもいいんだよ?」

「うーん、気分が乗らないからまた今度で」

「素直じゃないねえ」

「雫に似たんだろ」

「確かに」

 雫は楽しそうに笑っている。

 優牙はどうやってこの居候をこの部屋から追い出そうか考えた。

「お嬢ちゃんのこと考えてんだろ」

 雫が気になることを言ったので彼女に目を向けた。

「お嬢ちゃん?」

「真面目そうな黒髪の子。きみのクラスメイト」

 雫は悪戯っぽい視線を優牙に向けている。

「大切な人」

 雫は誰のことを言っているのだろう? 六花のことだろうか? だけど、雫の前で六花の話をしたことなどない。

「ふふふ。とても気になってる顔だ」

 雫のペースに乗せられかけているが、確かにその発言は気になった。

「一度、あたしに挨拶をしに来たことがあるんだ」

 雫は遠くを見るような目で言った。

「優牙くんにお世話になっています、ってね」

 一体いつの間に。この雫とだけは会わせたくなかったのに。

 雫は笑みを浮かべながら、けれど少しだけ寂しそうな顔になる。

「良い子だったね。あたしも見てみたかったよ」

「何を?」

「あの子と、あんたの未来を」

 雫はもはや笑っていなかった。

「おばあちゃんになり損ねたかな」

「……他人のことより、自分のことはどうなんだよ」

 雫が不思議そうな目を優牙に向けた。

「あんたはまだ若いだろ。人生まだまだこれからだ」

 雫はしばらく優牙を見つめた後、ニッと口角を上げて笑った。

「若者に若いって言ってもらえるのは嬉しいねえ」

「俺のことは気にしないでいいから」

「ちょっとー、なんか勘違いしてない?」

「何が?」

「あんたの人生を見守ることも、あたしの人生にとってとても大切なことなんだ」

 雫の意思の強い目つきが優牙を射抜く。

「傷ついたら休めばいいさ。誰も批難なんてしない。強がる男がかっこいいと思うなよ。甘えたい時は甘えればいいさ」

 優牙の胸の内にじわーっと温かいものが広がっていった。

 この人は、いつもどこかで自分のことを見守ってくれている。

 だがその時、雫の顔に再び悪戯っぽさが戻った。

「さっ、あたしの胸に飛び込んできな。ママーってね」

「早く俺の部屋から出てってくんない?」

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