紅き抱擁

高三・春

誰がために

 三年F組の廊下に花火の落書きが発見されたその日、一限目の時間に急遽三年の生徒たちが体育館に集められた。体育館の中は噂と憶測を話し合う生徒たちの声がざわざわと響いている。三年のクラスの担任たちは生徒を監督するように立っているが、とくに何をするというわけでもなく、無駄に時間が消費されていった。

 おそらくこうして生徒たちを体育館に呼び寄せている間に落書きの撤去が行われているのだろう、と優牙は考えた。落書きをあのまま残しておけば騒ぎが拡大するだろうし、刺激を受けてろくでもない真似をする輩が現れないとも限らない。噂が外部に広がれば学校の評判も落ちるだろう。教員たちは今せっせと防護策を講じているわけだ。

 優牙は落書きを見た時に確認していたが、花火の絵は直接廊下の壁に塗られていたわけではなかった。壁一面に大きな紙を貼りつけ、その紙に描かれていた。単に迷惑行為をするだけなら、そんな後の手間を考えるようなことはしなかったはずだ。落書きを描いた人間の目的は他にある。

 再び校内に現れた『レッドフード』の落書き。今回はより核心に迫っていた。

 Fを狙って落書きが描かれたのだから。明らかな意図があるに違いない。

 落書きは今朝発見された。誰にも見つからずに描くなら、今日の生徒たちが登校するより早い時間か、昨日の放課後の後だ。どちらにしろ、それほど難しいことではない。気にかかるのは、誰が、何のためにこんなことをしたかだ。

 なぜ『彼女』のグラフィティを模範するのか。

 SNSでは既に三年F組の廊下の写真が出回っている。みんな『レッドフード』の絵だと思っている。そんなはずがないのに。

 いつの間にか学年主任の教師がマイクを使って三年の生徒たちの前で話をしていたが、優牙はまったく聞いていなかった。ろくな話をするわけがない。

 優牙が何気なく視線を彷徨わせていると、三年F組の担任である神田を見つけた。いつものような仏頂面だが、この落書き騒ぎをどう考えているのだろうか? 自分のクラスの教室の前に落書きがあったのだ。

 ん?

 その時優牙の意識に訴えかけてくるものがあった。今何か見えた。

 優牙は目を凝らしてもう一度よく観察する。

 神田が履いている上靴が少し汚れているように見えた。泥がついたりしているわけではなく、色が――。

「優牙さん」

「えっ?」

 すぐ傍から自分の名を呼ぶ声がして優牙は意識を戻した。

「優牙さんはあの落書き誰が描いたと思いますか?」

 真剣な表情で問いかけてくる蓮の顔が見えた。学年主任の話が続いているが、ほとんどの生徒は話を聞いてない。だるそうにしていたり、近くの者と話したりしている。

 蓮はなぜそんなことを尋ねるのだろう、と優牙は考えた。蓮が気になっていることなのか? いや、おそらく優牙のほうが気にしていると蓮は考えている。蓮は自分のことより周りのことを優先する人間だ。

「まったく見当つかねえよ」

「そう、ですか」

「どうしてそんなこと訊いた?」

 蓮は何か言いたそうに口を開けたが、そこから言葉は出ず、一度口を閉じた。逡巡したのち、もう一度口を開いた。

「杉崎さんが泣いていました」

 茉莉のことだ。

「どうして杉崎さんが泣いていたのか、僕は知っています」

 優牙は蓮の顔をじっと見つめる。優牙は自分の表情が険しくなったことを自覚した。蓮は自分も茉莉と同じように優牙と六花の秘密を知っていることを暗に伝えたのだ。

「あの花火の絵を見て、僕も感じるものがありました」

 優牙はあの夏の日に見た六花の絵を思い返す。

「きっと、優牙さんが一番感じるものがあったのではないでしょうか」

 優牙は目を見開いて蓮を見た。その言葉で何かが解けたような気がした。

 そうか!

 今、優牙の心は揺れている。あの日以来停止したままだった心が、再び揺れ動いている。

 ドクドクという脈動が聴こえてきそうだった。

 優牙は拳を強く握り締める。

 誰が何のために『レッドフード』の絵を描いたのか、解き明かさなければならない。

 なぜならそれは、描かれたものだったから。

「なあ蓮」

「何ですか?」

「お前、カレー食べたい?」

「カレーですか? いえ、とくには」

「カレー食べたい?」

「……食べたいです」

「そっ。じゃあ茉莉にも声かけといてくんない?」

「杉崎さんにですか?」

「そう。放課後『スローアップ』行こうぜ」

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